日本では最近になって注目されるようになったMMT(現代貨幣理論)だが、欧米ではそれなりに思想的な背景があって形成されたものであることは間違いがない。政治的な背景についてはすでに書いたので、ここでは経済学以外の分野での動向をみておくことにしよう。
MMTに特徴的な主張にはいくつかあるが、ことに際立っているのが貨幣を「負債」として見ることを強調することであり、しかも、論理的に密接な、「貨幣国定説」を採用している点だろう。つまり、貨幣とは政府による国民からの「借金」として位置づけられ、それゆえに、政府には独占的なコントロールの権限が与えられるとともに、国民への「返済」が科されている(つまり、政策によって国民の福祉を増大する)という考え方をするわけである。
日本のMMT派の論者も、MMTの貨幣国定説は正しい説で、それは歴史学や文化人類学によっても証明されていると、さかんに主張しているようである。つまり、自分たちが拠って立つ新しい経済学は、歴史学や文化人類学も支持しているから正しいのであって、MMT派が主張することは、ゆえに間違っていないということになるらしい。
これまでも、さまざまな論争において自分たちが正しいと主張することは珍しくないが(そもそも、そう思わなければ論争するわけもないが)、しかし、あまり露骨に「正しい」「証明されている」といわれると、ちょっと眉に唾をしたくなる。そこで、ためしにMMTの入門書とされているL・R・レイの『現代貨幣理論 第2版』の該当箇所をめくってみると、ざっと3人ほどの名前と言葉が引用されて根拠とされている。
「われらの罪に満ちた負債」と述べたマーガレット・アトウッド、「ギリシャの貨幣は都市国家の権威を示す印がついていた」と語るレズリー・カーク、それに「国定貨幣は少なくとも4000年前まで遡れる」と言ったケインズである。しかし、アトウッドは作家で詩人であって、カークはギリシャ古典学者である。もちろん、詩人でも適切な表現をしているということだろうし、ギリシャ古典学者でも貨幣製造と古代文化に詳しい人だから登場するのだろうが、負債問題を論じるのに経済学者がひとりというのは、ちょっと迫力に欠けるような気がしないでもない。
これはおそらく「入門書」ということで、著者のレイが、あんまりお堅い学者ばかり並べるのは遠慮したためかもしれないが、もうひとつ、MMTの根拠を固めるためには、積極的に他分野の見解を取り入れるという姿勢の表れだろう。レイの周辺で活躍している歴史学者とか文化人類学者といえば、『マネー:その負債と権力の5000年史』を書いたレギュラシオン派のミッシェル・アグリエッタや、世界的ベストセラーの『負債論』で知られるデビッド・グレーバーをおとすわけにはいかない。さらに、グレーバーとの関係でいえば『経済人類学』のキース・ハートや中近東に詳しい経済史家のマイケル・ハドソンなども考慮すべきだろう。
レイが切り開いたとされるMMTの貨幣論では、主にG・F・クナップが登場して、彼の『貨幣国定説』(1905)が解説される。簡単にいえば、通貨というものは国家の権威を背景として流通が可能になるのであって、アダム・スミスが採用した「物々交換から特定の貴金属が通貨として採用されるにいたった」という商品通貨論もしくは貴金属通貨論は激しい攻撃の対象となっている。さらに、1913年に「貨幣は計算手段である」と主張したミッチェル・イネスの論文「通貨とは何か?」が再評価されて、レイたちは当時は異端とされたイネスの論文集を組んでいるほどなのだ。
こうした通貨国定学説(通貨の本質を権威のお墨付きに求めることから「表券主義」ともいわれる)に基づくMMTは、とくに、オーストリア学派のルートヴィヒ・フォン・ミーゼスが唱えたメタリズム(金属主義)に対して繰り返し批判している。フォン・ミーゼスは政府の非介入を唱え、『貨幣および流通手段の理論』(1912)のなかで、貨幣は金の素材としての交換価値が受け継がれたと論じた。レイたちMMTにとっては、天敵というべき存在なのだろう。
MMT理論家たちは貨幣の起源についても繰り返し論じているが、メソポタミア文明における粘土板に、徴収すべき税の数値が刻まれていたことを根拠に、すでにこの時代には「貨幣」があったのだとする。この説は、ケインズが『貨幣論』(1930)の冒頭で展開した貨幣分類論のなかでも採用しているから、MMTの理論家たちは彼らの始祖のひとりであるケインズの説を継承していることになる。
もちろん、MMT派はそのままケインズを素朴に引き継いだわけではなく、ケインズも参照したクナップ、イネスに加えて、さきほど触れたマイケル・ハドソンたちのメソポタミア貨幣起源説によって自説を強化している。さらには、レイの現代貨幣理論に刺激をうけたグレーバーやアグリエッタたちの研究を取り込み、歴史学や経済人類学でも貨幣国定説は支持されているとして自信を深めているわけだ。
興味深いのは、アグリエッタを中心とするフランス研究者たちのグループに「原初的負債論」が誕生したことだろう。これは、貨幣の起源を研究するいっぽうで、古代の宗教感覚を探究していくなかで生まれたもので、人間の誕生じたいが負債すなわち罪であり(たとえば古代インドの教典では負債は罪業の意味をもっているという)、ここからレイのように経済の負債と聖書の原罪とを接続して、政府の負債すなわち貨幣であると敷衍する者もいる。つまり、負債をかかえた政府は、完全雇用を達成してこそ任務を果たしたことになるという論理を展開するのである。
こうした周辺学問から多くの要素を吸収している様子は、現代の経済学流派としてはかなり珍しいと思われる。しかも、政治学や社会学というのなら普通だが、歴史学、文化人類学、はては宗教学との融合をはかろうというのは、なかなか見上げたものだといってよいかもしれない。
とはいえ、こうした越境的な議論が、ほんとうに稔りの多いものなのかは、やはり留保が必要ではないかと思う。たとえば、アグリエッタたちの「原初的負債論」について、興味深い話だとは思っても、たとえばグレーバーなどは、これが貨幣論に結びつくかについては、やや及び腰である。「この種の絶対的生の負債がどのようにして貨幣へと換算可能になるのか、はっきり説明されていない」。ましてや、東アジア文化圏の「租庸調」をいかに検討したところで、そこに原罪を発見するのは困難である。
さきほど述べたメソポタミアの粘土板に記録された税収の予定量についても、これがすぐに「貨幣」といえるかは、やはり疑問なしとはしない。ケインズはこうした計算貨幣money of accountこそが本源的概念だというのだが、では、同地域の同時期に粘土板とは別に秤で量った貴金属が実質的に貨幣であったこととどう調和するのだろうか。しかも、表券主義が主張するように、前7世紀に作られたリディアの金貨には前もって計量した金に王家の紋章がついていて、それゆえにこそ貨幣の本質は国定で表券なのだという議論とは矛盾しないのだろうか。
いまの先進国を見るかぎり、たしかに表券主義の時代となったことは明らかだが、それはごく最近の話で、それまではさまざまな形態の「貨幣」が並行して存続していたし、これからも何種類もの「貨幣」が存続する可能性がある。(もちろん、こういったからといって、単なる投機だけが目的のクリプト・カレンシーを未来の貨幣などと呼ぶ気はない)。だからこそ、ケインズは『貨幣論』のなかで、ここに掲げた図版のようなものを添付して、ますます議論を複雑にしているのである。
若いころに文化人類学の雑誌の編集をやったこともあって、経済学に興味をもたざるを得なくなってからでも、やはり文化人類学と経済学の越境的な考察が好きだった。そのなかでも、カール・ポランニーの『大転換』を中心になって翻訳した吉沢英成氏の著作『貨幣と象徴』にある種の偏愛をもってきた。もちろん、1981年初版のこの本は当時の言語学と記号論の隆盛という時代背景をもっているのだが、制度論、素材論、精神分析論、記号学、言語学などが縦横に導入されていて、包括性と柔軟性は依然として超えるものがない。
こうした著作を読んでおけば、なにかひとつの起源からすべてを引き出すという起源論は、いかめしい相貌をもっていても、われわれをみじめな袋小路へと導くだけだと気づくのではないだろうか。そもそも、文化人類学にせよ経済人類学にせよ、わたくしの見るところ、何かに固執する発想から解放させてくれるのに有効でも、具体的な目標や政策を決めるのにはまるで向かない。それは経済人類学の祖であるポランニー自らが語っていたのである。
「原初的社会の研究はしばしばその社会を理想化しがちであるが、研究者はそういうことのないように気をつけねばならない」
●MMTについては「コモドンの空飛ぶ書斎」で「MMTの懐疑的入門」を連載中