HatsugenToday

東谷暁による「事件」に対する解釈論

魔術的マネーの時代;呪文「g>r」の魔力を検証する

新型コロナウイルスの経済的打撃から立ち上がる方法として、先進諸国が採用しているのが青天井かのように加速される財政支出である。もちろん、日本も同様で5月27日に閣議決定された第2次補正予算は31.9兆円、第1次の25.7兆円と合わせて約58兆円に達した。この「真水」部分がどれくらいとか、予算の振り方についての議論はひとまずおくことにする。

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こうした先進諸国のコロナ対策費用は、すでに総計で12兆ドルを超えたといわれる。最大はもちろんアメリカで、4月24日にトランプ大統領が署名した財政出動は3兆ドルに迫るものだった。日本ではごく最近まで、これ以上の財政支出は不可能だとか、インフレターゲット政策を続けると、ハイパーインフレになるとか論じる声がやかましかったが、もう、財政支出の金額が「まだ少ない」という声のほうが大きいくらいだ。

 しかし、これまでの財政タカ派が主張していたような、恐怖を煽るだけのハイパーインフレ論はともかく、では、これほどの財政支出が可能になったのは、どういう理屈によるものだろうか。いちばん分かりやすいのが「いまは異常事態だから、ともかく当面の経済崩壊を防ぐ」というものだが、すでに1昨年あたりからアメリカでも主流経済学においてすら、「もう少しくらいの財政支出なら、すぐにインフレが起こることもないし、また、一定のレベルを保てば財政破綻に結びつくことはない」という議論が広まっていた。

もちろん、MMT(現代貨幣理論)の理論家たちが「まだ大丈夫だ」というのは分かるにしても、それまで財政拡大に警告を発していた主流派の米経済学者までが「もう少しなら大丈夫」と言い出したのには驚いたり呆れたりした。しかし、日本だって少し前まで「インフレターゲット政策しかない」と断じていた内閣顧問の経済学者が、あんまり効いてないと分かると、「シムズ理論の論文を読んで、目からうろこが落ちた」などといって、財政拡大してもまだ大丈夫と言い出したのだから、それほどビックリする必要はなかったのかもしれない。

 それどころか、今年の1月から新型コロナが中国で流行するや、瞬く間に世界的なパンデミックに発展し、アメリカなどではトランプの初動ミスもあって今や10万人以上の死者が出て、今年末までには失業率が20%に達するといわれる状況になると、空気はたちまち一変した。こうなってみれば、1昨年あたりから財政支出に甘くなっていたのは「天の配剤」だったのではないかとすら思えてくる。しかし、やはり問題は「今みたいな財政拡大をやっても大丈夫だという根拠はいったい何なのか」ということである。もう、多少の欠陥があっても、どんなふうに理屈をつけているのかくらいは、知っておいたほうがいいだろう。

 アメリカの外交誌『フォーリンアフェアーズ』5月29日号にセバスチャン・マラビーの「魔術的マネーの時代;際限のない財政出動は経済的崩壊を阻止できるか」というタイトルのリポートが掲載された。外交誌が経済問題の、しかも理論にかんする話のリポートを載せるというのも最近では珍しくなくなったが、それなりにまとまっているので核心部分だけざっと紹介して、少しばかりコメントしておきたい。

 マラビーの見るところ、ここまで財政拡大が是認されるのは、今回のショックが大きかったからであることは当然だが、それに加えて2重のショック(ツイン・ショック)だったからだという。それは大恐慌と第2次世界大戦が続いたルーズベルト時代にも匹敵するもので、今回は2008年から始まる世界金融危機と今回のコロナ・パンデミックによって、「魔術的マネーの時代」が再び呼び覚まされたというわけである。

 しかも、世界金融危機のさいに、バーナンキが率いるFRBが大胆な金融政策を採用していたことが、今回の際限のない財政出動と債権の買い入れ政策を準備した。トランプ大統領とパウエルFRB議長が行っている政策は、そのコピーであるだけでなく拡大版といってよい。バーナンキは世界最大の保険会社AIGを救済するのに850億ドルを投入し、さらにマネーの創造と債権の買上を含む「量的緩和」を断行した。そのことで「FRBは、いわば超経済政府といってよいような、最大の大きな政府代理人となった」。

 以降、アメリカ経済における金融および財政が、強壮剤をばしばし打つような「ステロイド」政策に変わっていったことを述べているが、それはとりあえず省略して(とりあえず書いて、改めて加筆・訂正するつもりです)、このリポートの理論的核心に入っていこう。

 バーナンキの時代を経て、いまや国債財務省証券)を含む債権の買い取りも、青天井の大胆な財政出動も、金利を上昇させたり財政破綻を生み出したりを恐れる必要のないものへと変わっていった。たとえば、FRB国債を大量に買うことによって利回りは低下してゆき、財務省国債をより発行しやすくなる。さらに、FRB国債保有することで得た利回りを国庫(財務省の口座)に納めるので、財務省としては国債発行の費用が安く済むことになる。いってみれば、マッチポンプをやればやるほど起債状況は好転していくのである。

 これはこの20年あまりの日本での現象と同じといってよいだろう。いまの世界的な財政拡大の時代において、日本はまさに「範例」のように見られるようになった。財政赤字が拡大していった1990年代に日本国債ジンバブエ並みの格付けをされたものだが、いまや財政赤字がGDPの200%を超えても、とくに問題が起きていないことが、世界の先進諸国の励みになっているのだ。

 もちろん、そこには気を付けなくてはならない一事がある。それを外すと「魔術的マネー」の魔術はとけてしまって、ハイパーインフレはともかく、高インフレや国債の消化が難しくなるような事態が生じてしまうかもしれない。それは、ほかでもない、「g>r」という呪文を唱え続けて守ることなのだ。

 いうまでもなく、gとは名目GDP成長率であり、rとは長期国債の利回りである。名目GDP成長率=実質GDP成長率+インフレ率だから、たとえば10年ものの国債利回りrをゼロ近くに維持するかぎり楽勝といえる。この呪文を守る限り、対GDP比政府債務の割合は増加しない。日本の場合は金利rがゼロでもデフレの時期には(gがマイナスになるので)財政赤字の拡大は恐怖となった。しかし、このところは名目GDP成長率が金利ゼロよりは高く、インフレ率もかろうじてプラスだったので、「g>r」の呪文は守られている。この事実こそが、コロナ・パンデミックに戦慄している先進国の希望となっているわけである。

 アメリカでは財政赤字に厳しかった経済学者ブランシャールが、1昨年、当面は財政赤字も是認できるとして、最低限の条件「g>r」を提示している(もっとまどろっこしく、シミュレーション付きだが)。もちろん、クルーグマンなどの民主党左派の経済学者も、この呪文を唱えることに賛成している。そしてまた、MMT(現代貨幣理論)もジェームズ・ガルブレイスの勧めによって「g>r」を採用するようになったので(理論の組み立てからして、不要だったのではないかと思うが)、ともかくこの呪文は立場を超えてコロナ危機を乗り切るための黄金律となっている。

 しかし、この呪文がこれからも守られるかは、やはり不確実だというべきだろう。アメリカも1990年ころに実質GDP成長率が落ちてヒヤリとさせたものだった。そのときには、1980年代にポール・ボルカーFRB議長が達成したインフレ鎮静化を無にするような政策がとられた形跡がある。つまり、「g>r」を守るためにインフレ率が急進するのを是認すれば、実質GDP成長率が低くても何とかなるからである。

 もうひとつ、この「g>r」の呪文は途上国にとってはきわめて難しいものとなるので、必ずしもおすすめの魔術とはなりえない。危機にさいしては国債金利は上がる可能性が高いからだ。そしてまた、マラビーの見るところ、この呪文は、先進諸国にとっても、チャンスにもなり転落へのきっかけにもなりうる諸刃の剣だということである。それは、一時の日本のようにデフレ経済に沈むようなことになれば、たちまち死の呪文となるからである。