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東谷暁による「事件」に対する解釈論

いま核の時代が「復活」している?;単に議論を忌避していただけだった

核兵器についての議論が再び活発になりそうだ。ただし、日本以外の国々においてだが。北朝鮮がミサイルを発射したので、そういうのではない。もはや大きな趨勢として、世界は「核の復活」が進んでいる。「核の終わり」の終わりという専門家たちもいる。いずれにせよ、現実の世界は核の廃絶に進んでいないことは確かだ。

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この「核の終わり」の終わりを方向づけているのは、まず、ロシアの動向があった。かろうじて、今年の1月にアメリカとの新STARTの延長が決まったが、すでにロシアは昨年の6月にプーチン大統領が「核抑止力の国家政策指針」にサインして、ロシアの核兵器使用へのハードルを大幅に下げている。

 もちろん、核兵器をすぐに使うなどということではなく、まずアメリカを牽制することが狙いだが、これに対して日本の某新聞の社説のように「競争を脱して軍縮へ動け」などと述べているのは、能天気もはなはだしい。まずは国際社会の核戦略の現実を読者に伝えることが必要で、自分たちの倫理観で世界が動いているわけではないことを知るべきだ。

そして、中国核の存在感が急激に大きくなったことが挙げられる。発表された核弾頭の数だけで、中国は核武装においてはたいしたことがないなどと思っているのは、極端な楽観的な核廃絶論者か日本人だけだろう。毛沢東の「1皿のスープを2人で飲んでも、1本のズボンを2人ではいても、核武装を推進する」という思想は、すでに巨大な毒花を咲かせている。

少し前には英国の核兵器が増強されると報じられ、同国のザ・テレグラフなどがその内容をめぐって、激しい報道合戦を繰り返した。もちろん、報道の基底には核のない世界を理想とする傾向がないわけではないが、まずは世界の核戦略を前提として、事実を報じることが必要なのである。

米外交誌サイト「フォーリンポリシー」3月23日付に、スティーヴン・ワルトの「アメリカは核の傘をたたむときだ」が掲載された。もちろん、これはアメリカが核武装をやめろという論文ではない。アメリカが同盟国に保障している「核の傘」は、費用がかかるだけでなく、きわめて危険な戦略だからやめろと言っているのだ。そして、それぞれの国が自前の抑止力としての核武装をしろというのである。

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foreign policyより


この主張は核戦略について多少とも知っている人にとっては「ああ、またか」と思うほどありふれた考え方だが、日本人のほとんどの人にとっては、何のことか分からないだけでなく、「核の廃絶が進む時代に、何をいっているんだろう」と思うかもしれない。まず、先に述べたように核の廃絶は進んでいないから、そこから発想を変えねばならないが、もうひとつ、超大国核の傘を提供するという核戦略は、実は危険だという考え方があることを知る必要があるだろう。

 簡単に述べてしまうと、核の抑止戦略における基本は、最初に核攻撃をした国に対して、攻撃国が耐えられないほどの報復を与えられるかどうかにある。もちろん、これは古い考え方で、最近の議論では技術が発達したので、報復核の議論は成り立たないという専門家もいる。しかし、ワルトが改めて言っているのは、いまやこの基本に立ち返るときだということなのである。

アメリカが同盟国に核の傘を保障して「あなたの国を核攻撃する国があったり、通常兵器で占領しようとする国があったら、アメリカは核攻撃を辞さないことを約束する」と言ったとする。そのためには、まず、アメリカの核武装は巨大なものに膨れ上がるだけでなく、この約束が守られない場合があるという、きわめて危険な状態にアメリカと同盟国を置くことになる。

なぜなら、もし、同盟国を核で攻撃することが明らかになった国があったとき、その国をアメリカが核攻撃しても、その国に報復ができる核戦力が残存する可能性があると、こんどはアメリカの巨大都市と同盟国が核の標的になるからだ。アメリカは本当に他国のために、自国の大都市の住人を差し出すことができるかという、きわめて大きな問題がでてくるのである。

 こうした議論は、すでに40年ほど前にケネス・ウォルツという核理論家が論じて、それが前出のワルトなどの議論の基礎になってきたという経緯がある。しかし、あまりに純理論的なものとされて、さまざまな例外事例によって否定する核理論家もアメリカには大勢いる。そうした人たちは、いま核を持っていない国が新たに核武装するのは、きわめて危険なことだと論じてきた。

 ワルトはいま、ウォルツが論じた「多ければ多いほどよくなる」つまり、ゆっくりと核拡散が起これば、それは世界の核戦略にとってかえって安定をもたらすという、古典的で理論的な議論を、いまだからこそ蒸し返そうとしているのである。このウォルツ理論についての詳細はここでは述べないが、事例だけを挙げておこう。

報復できるだけの核兵器を持つことで、核武装した相手からの攻撃を抑止できる例として挙げられるのはインドとパキスタンのケースであり、両国がともに核武装してからは、紛争レベルまでの衝突はあるがエスカレートは避けるようになった。今回ワルトがもうひとつの例として挙げるのが北朝鮮のケースで、リビアイラクアメリカが攻撃したが、北朝鮮はそれなりに核武装したことで、アメリカが攻撃を控えざるをえないことになった。このことを軽視すべきではないというわけである。

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foreign policyより


このウォルツやワルトの核理論は、もちろん、前トランプ大統領の「ディール」とはまったく異なっている。トランプは結局、北朝鮮から何も引き出せなかっただけでなく、金正恩の王朝を延命させただけだった。不動産を売買するようなディールでは、核をとりまく駆け引きはできない。そして、もし本気で金王朝の廃絶を考えるなら、単なる脅しやディ―ルでは、核武装した国に対してはだめだということを意味する。

 もちろん、ワルトは日本についても言及している。「アメリカが核の傘戦略をやめてしまえば、いくつかの国々が自前の核武装を追求することになるかもしれない。しかし、純粋にアメリカの立場からみて、日本やドイツの核武装が恐るべき結果をもたらすかは、必ずしも明らかでない」。

 こうした核議論や核理論の話は、多くの日本人にとって生理的に不快であり、「そんなことを議論するから核が廃絶されないのだ」という反発を受けることは多い。しかし、そうではない。こうした議論をしたり、世界の現実を知ったり、理論についても一定の知識をもたないから、生理的に反応するしかなくなるのである。