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東谷暁による「事件」に対する解釈論

コロナ・パンデミックは自殺を増加させない;医学専門誌ランセットの論文が主張している

新型コロナ・ウイルスのパンデミックは、世界的に見て、どれくらい自殺者を増やしたのか。医学専門誌ザ・ランセットの電子版4月13日号に掲載された「コロナ・パンデミックにおける初期数カ月の自殺トレンド」は、その意外な結論から注目された。「自殺の予想数値と現実の数値の比較は、パンデミックが始まって以来のすべての国および地域で、自殺の危険が高まった証拠がないことを示している」。

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日本においても、コロナ・パンデミックが始まって数カ月は、むしろ例年より自殺数が減ったので話題になった。その後、夏から秋にかけて増加したので、予想通りだという人もいたが、自粛反対派が主張したような、数十万人の自殺という事態からはほど遠かった。そして、今年になると再び自殺者は減少の傾向を見せている。こうした現象を、日本のなかの事情だけでなく、世界全体との比較をもう一度見直すには貴重な論文だといってよい。

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The Economistより:世界的に自殺数は増えていない。昨年の日本は例外的


さいわいなことに、英経済誌ザ・エコノミスト4月24日号が、この研究のグラフを見やすくし、考察をかいつまんで紹介している。日本については今年3月までのデータを含めてグラフ化してくれている。ここでは、ザ・ランセットとジ・エコノミストの両方から、その結論部分だけを簡単に紹介しておきたい。

まず、ザ・ランセットだが、「ディスカッション」では次のように概括している。「一般論としていえば、主な分析を基にすると、私たちが対象にした21カ国におけるパンデミック初期の数カ月の間に、自殺のリスクが高まったという兆候は見られない。また、いくつかの国あるいは地域では、むしろ、予測数よりも実際の自殺数のほうが少なかったのである」。

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The Economistより:コロナ期の自殺は以前の何%か(1)多くの国は減っている


日本では、最初の数カ月において自殺数が減ったときに、その理由が議論されて、たとえばデュルケーム派と思われる社会学者からは、デュルケームの『自殺論』で指摘されている「アパシー(無気力)」が、パンデミックという危機状態では生まれなかったせいではないかとの指摘もあった。これは、戦争時にはノイローゼになる人がいなくなると指摘されてきたことと関係があり、何らかの緊張を要求する事態では「アパシー」による心の隙間がなくなるからと説明されることが多い。

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The Economistより:コロナ期の自殺が以前の何%か(2)多くの国は減っている


しかし、その後、日本においては増加したので、こうした視点の議論も一時的に後退したようにみえた。この点についてザ・ランセットは「日本においては、パンデミックが影響を及ぼしつつあると思われている間に、広く知られた何人かの有名人の自殺が起こっている」と指摘している。日本と並んで世界全体で見た場合の例外は、たとえば、プエルトリコのように、2006年以来のきわめて激しい経済後退が生じて、貧困層に自殺数が急増したケースだという。

ジ・エコノミストが、このランセット論文について、世界全体で見た場合を次のようにまとめている。「データの中央値で比較すると、2020年の4月から7月までは自殺数が予想値よりも10%少なく、2019年の同じ時期より7%少ない。人口で加重した場合も、予想値より平均7%少なく、2019年より11%少ないことになる」。

日本については、ジ・エコノミストも特に触れているが、やはり、世界全体でみたときには、増加は例外的な現象だったことを、今年のデータも参照にして示唆している。「日本では昨年の後半において自殺の増加が見られたが、これは2009年以来初の増加をもたらした。この事態に対し日本政府は『孤独・孤立対策室』を新設したほどだった。しかし、2021年の第1四半期において、日本の自殺率はパンデミック以前に戻った。また、この時期において他の国の自殺急増の兆候も見当たらない」。

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 ただし、ザ・ランセットもジ・エコノミストも、この日本の急増が女性の自殺増加によって生じたことには、ほどんど注目していない。日本では、昨年の10月から12月に見られた増加を説明するさいに、たとえば、母子家庭の母親が追い詰められてではないかとの説も有力だった。この要素もあったには違いないが、警察庁発表のグラフを見ると、原因・動機で増えているのは「健康問題」であって「経済・生活問題」は減っている。ここでも、頭の中で漠然と想像したことと、実際に起こった現象には微妙な違いが存在しているわけである。

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この自殺問題も、ワクチンが欠乏しているような今の事態のなかでは、依然として大きなものであり続ける。ワクチンが回ってこないことの不安や、ワクチンの副反応が与える恐怖も、社会心理を大きく変えるかもしれない。もう少しこのテーマについて追いかけることにしたい。