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東谷暁による「事件」に対する解釈論

武漢の研究所から流出したという説は正しいのか;論争があぶり出すバイデン政権の思惑

バイデン大統領は、5月26日、新型コロナ・ウイルスの起源について、動物からの感染説と武漢の研究所からの流出説の2つがあることを指摘して、情報機関にさらに詳しい調査を命じた。その波紋は大きく広がり、メディアのなかにも激しくバイデン大統領の遅れを批判する派と、中国が協力する見込みがないなかで真実に到達するのは難しいとする懐疑派が生まれている。

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いま勢いづいているのは、アメリカの共和党系と言われるウォールストリート紙で、「そらみたことか」という論調で、バイデン大統領だけでなく動物起源説を権威づけたコロナ問題大統領顧問アンソニー・ファウチをも激しく叩いている。同紙は5月24日に「武漢ウイルス研究所から流出したという疑い:中国のある廃坑が疑惑の中心である」という、かなり長いレポートを始めとして、流出説を強く支持していたから、勢いづくのも当然といえる。

このレポートは同紙日本版でも掲載されたので、読んだ方も少なくないと思うが、ざっといって疑惑の対象とされるのは3つある。第一が、タイトルにも出てくる中国南西部にある廃銅山で、この廃坑に入った6人が正体不明の病気にかかった事件。第二が、武漢ウイルス研究所で、SARSウイルスの遺伝子を操作していたとされる問題。第三が、前出の米国立アレルギー感染症研究所所長ファウチが、実は流出説が正しいのを知っていたのに、それを自己都合のために否定したという疑いである。

まず、廃銅山について簡単に述べると、2012年、廃坑にたまったコウモリの糞を掃除するため鉱山労働者が入ったが、6人が原因不明の病気にかかって、3人が死亡したとされる事件である。このとき6人に現れた症状について、昆明医科大学の医師たちがが詳細な記録を残し、同大学のリー・シュー医師は修士論文にまとめていたという。

ウォールストリート紙は、この論文に基づいて詳しく書いているのだが、要点だけを紹介しておこう。2012年4月2日からコウモリの糞の掃除をした42歳の男性が、発熱と咳に悩まされ、入院の3日前には呼吸困難におちいった。咳をすると血の混じった痰が出たという。入院させてCTスキャンで検査すると重症の肺炎と判明し、これは現在のコロナ患者に似ていたと同紙は述べている。

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それから翌週にかけて、同じくコウモリの糞の掃除をした5人が病院に入り、全員がよく似た症状をしめした。2012年の8月半ばまでに、この6人のうち3人が死亡し、それはコウモリ起源のウイルスによって引き起こされたSARSと、よく似たコロナウイルスが原因ではないかと推測された。この原因不明の病気が発生して1年ほどの間に、武漢ウイルス研究所の研究者たちが、廃坑からコウモリ276匹分の糞を標本として採取し、それらは6種類のコウモリのものであることを確認した。

 ここから第二の疑惑になるが、武漢ウイルス研究所でこのコウモリの糞からの遺伝物質を抽出して、遺伝子配列を解析し、SARSとの関連を調べたのが同研究所の石正麗研究員だった。石正麗と同僚は2016年に学術雑誌「Virologica Sinica」に論文を発表して、原因不明の病気は抽出されたコロナウイルスだと指摘し、閉鎖された廃坑が発生源だと述べたが、SARSとの関連については明示的に述べていなかったようだ。

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WSJ.comより:研究中の石正麗氏


この石正麗たちの研究が注目されるのは、すでに新型コロナのパニックが始まっていた2020年2月になってからで、科学雑誌ネイチャーに「RaTG13」というウイルスの存在を明かしたときだった。このウイルスは新型コロナウイルスSARS-CoV-2」と非常に似ていて、遺伝子配列が96.2%一致すると石正麗たちの論文は指摘していた。

もちろん、こうした論文が世界の研究者たちの目にとまらなかったわけはない。多くの研究者が石正麗に「RaTG13」の遺伝子配列を発表するよう要請した。なかなか反応がなかったが、今年5月21日になって彼女たちは査読前の論文を発表するサイトに投稿する。その論文によれば、廃坑で見つかった8つのウイルスの遺伝子とSARS-CoV-2のそれとは、遺伝子の一部では97.2%の一致を示したが、全体では77.6%に過ぎなかったという。そして論文には次のような文章があった。「RaTG13が研究室から流出して、それが(新型コロナウイルスSARS-CoV-2になった可能性があるという憶測があるが、実験のエビデンスはそれを証明していない」。

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しかし、石正麗たちの研究とは、実は、「コウモリ起源で種類の違う既知のウイルスの遺伝子を組み合わせることで、新たなウイルスを作り上げ、人間への感染力が高いものになる可能性があるかを確かめるもの」であったことは、彼らの発表した論文から分かっている。こうしたウイルス研究は「機能獲得型研究」と呼ばれ、どのようなウイルスが出来てしまうか予測できないため、きわめて危険なものだとされてきたという。

ここまで疑わしい事実があったのに(とウォールストリート紙は言いたげだが)、アメリカの新型コロナ対策の最前線に立つことになった研究者のなかには、流出説を「陰謀説」と呼んで批判し、客観的な研究をすることができなくなった。たとえば、流出説を陰謀説と批判した研究者ピーター・ダシャックは、WHOの調査団に加わって流出説を軽視する報告書に名を連ねている。しかし、彼はNPO「エコヘルス・アライアンス」の代表を務めており、このNPOは米国立アレルギー感染症研究所から資金提供を受けて、武漢ウイルス研究所に協力しているのである。

ここで第三の疑惑であるファウチの問題が登場する。ファウチは最近、「流出説も否定できない」と発言したが、それ以前は動物感染説が正しいと語り、流出説には否定的だった。彼のような権威の影響力は大きく、研究者たちの見解が動物感染説に傾いたのも彼の発言が大きかった。しかも、ファウチは動物感染説が「主流」となるのを工作していた形跡すらあるという。そのファウチがダシャックのNPOを通じて、武漢ウイルス研究所と繋がっていたとすれば、これは問題が大きすぎるのではないだろうかと、ウォールストリート紙は強調している。

 同紙はこのリポートを掲載した2日後の5月26日、バイデン大統領が2つの説を並べて調査を命じたことで沸き立ったことは、すでに述べた通りだ。同日に社説で流出説の正しいことが明らかになったと断じて、それが分かっていたのに長い間調査をさせなかったバイデンは「恥ずかしい」とまで述べている。さらに、6月3日にも「アンソニー・ファウチと武漢ウイルス研究所」というタイトルの社説で激しくファウチの責任を追及している。

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ウォールストリート紙のレポートと論調をざっと紹介したが、細かいところを割愛していることは了承していただきたい。こうしたストーリーとしてまとめられたレポートを読めば、流出説が正しいことはもう間違いないと思う読者もおられるだろう。しかし、たとえば、廃坑のコウモリが起源なら、武漢ウイルス研究所が介在しなくても、他の動物に感染するなかで新型コロナに変異して、人間に動物感染した可能性はないのだろうか。そしてまた、たとえアメリカの情報機関がしゃかりきになって、エビデンスとなる秘密情報を手に入れても、はたして中国はその情報をエビデンスとして受け入れるのだろうか。

 ちょっと気になったのは、レポートで物語られているストーリーの元になった情報が、いったいどうやって入手できたのかだった。それは文章中に次のような段落があることから推測できる。「研究者とインターネット探偵の小さなグループが、武漢ウイルス研究所が何をしてきたのか、とくに廃坑と関連したエビデンスを、数カ月を費やしソーシャルメディアを使って協力しつつ公開してきた。彼らは3月以来、3通のオープンレターのなかで、研究所流出説をさらに調査することを求めている」。

この「小さなグループ」については、ニューズウィーク電子版6月2日号が「独占:いかにして素人探偵たちが武漢ラブ・ストーリー(研究所の内情)を発見し、マスコミを困惑させたか」という、これまた長いレポートを掲載して、シーカー(探索者)とその協力者である研究者たちのグループ「DRASTIC」が、いかに情熱的かつ戦略的にエビデンスをサーチしていったかを語っている。その内容は、ほぼウォールストリート紙の内容と重なるのでここでは省略するが、同誌のローワン・ジェイコブソンは、彼らが集めたエビデンスの重大さを指摘するとともに、限界についてもさりげなく触れている。

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まず、新たなエビデンスの重大性だが、第一に、武漢ウイルス研究所が長期にわたって、コウモリの棲む廃坑で何種類ものコロナウイルスを採取していたこと。第二に、武漢ウイルス研究所は、これらのウイルスでさまざまな実験を行ってきたが、安全管理がかなり杜撰だったこと。第三に、武漢の海鮮市場で最初の集団感染が起こる以前に、すでに新型コロナ感染者がいたという事実の3つである。では、これが流出説の決定的なエビデンスとなるかといえば、必ずしもそうでないことは認めている。

 「この3つのいずれも、もちろん、今回のパンデミック武漢ウイルス研究所から始まったことを証明しているわけではない。しかし、DRASTICが積み重ねたエビデンスは、検察官がいうところの「もっともな理由」には達している。つまり、さらなる調査が必要な、強くてエビデンスに基づいた案件ではあるということだ。アメリカやそのほかの国々がベストを尽くしたとしても、研究所流出説を裏付ける明白なエビデンスに達するかは明瞭ではない。しかも中国の全面的協力が必要だが、それは得られそうにない」

 もちろん、同誌は調査が意味ないものだと言っているのではなく、まったく逆である。完全な解決に至らないとしても、シーカーたちがもたらしたエビデンスをテコにして、もっと真相に迫ることはできるというわけである。

 いっぽう、ニューズウイーク誌が垣間見せている悲観的見通しを強調して、シニックともいえるような論評を載せているのが英経済誌ジ・エコノミストだ。同誌5月29日号では「新型コロナウイルスは中国の研究所から流出したという理論を検討する」を掲載した。サブタイトルは「いまのところエビデンスは状況証拠だけ」というものである。

 ウォールストリート紙が共和党支持で金融界寄りだとされるのに対し、英経済誌ジ・エコノミストは経済グローバリズム大賛成で新古典派的だといわれるが、国内経済政策については、不況になれば「ケインスの復活」を唱えたりもする。人権についてはリベラル派だが、経済については功利主義あるいは結果主義といえる。

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さて、そのジ・エコノミストが指摘するのは、そもそも、動物感染説にしても研究所流出説にしても、可能性としてはいくらでも論じたてることができるし、また、これまでもいずれの場合の例に事欠くことはないということである。したがって、いまの状況のなかで情報機関が何らかの事実を探してきても、また、科学者がゲノムの配列から何かを見つけたとしても、すぐに問題の解決にはならないのだという。

もう、かなり長くなっているので、簡単に述べるが、動物感染説を支持するような事態を集めようと思ったら、ベトナムでの研究例があるだけでなく、まさに武漢の海鮮市場がどれほどルーズなところだったかを思い出せばよい(中国はパンデミックの後、自然動物の消費と売買を禁止した)。また、流出説を強化するためには、天然痘の最後の流行が研究施設からの流出であったし、SARSや新型インフルエンザも流出しているという。そして、中国の全面的な協力がないことが分かっているのに、新たな調査は意義があるのかと疑っている。

 「理想的には、中国が新しいエビデンスを明るみに出す調査に協力することだろう。しかし、それはほとんど期待することができない。アメリカの情報機関が細大漏らさぬ調査をやって何らかの結論に至るのは可能である。あるいは、科学者たちが大勢でウイルスの遺伝子と構造を探究して何かを見つけることもあり得る。しかし、肝心の問題についてすぐに解決がもたらされることは保証の限りではない」

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付け加えておくと、ワイアード誌電子版6月4日号に、アダム・ロジャーズという科学ライターが、興味深いことを書いている。2019年11月に武漢ウイルス研究所で3人の重症者がでたが、翌年2月にある研究者が査読も公開もされていない論文のなかで、研究プロジェクトのなかで作られ流出されたものではないかと論じていた。そのいっぽうで、新型コロナウイルスCOVID-Co-2は、人為的な改変を受けていないことが示唆されていたという。もし、科学者たちにできることがあるとすれば、このグレーな部分の解明がそのひとつとなるのではないだろうか。

最後に簡単にコメントしておくと、今回の流出説の甦りは無意味なことではないが、かなり政治的なものと考えるべきだ。たとえば、ファウチの言動に見られるように(かれは医者で科学者だが、公衆衛生をつかさどる政治家でもある)、バイデン政権の対中国政策の微妙な変更によって、発言もまったく変わった。疑問を完全に解明する可能性は高くないが、中国のコロナ政策には大きな瑕疵があったと示唆するに十分な、インターネット探偵たちがもたらした情報を、バイデンたちは利用していると思われる。それは、中国がコロナ対策で世界に迷惑をかけたか否かとは別の問題である(わたしは、自国中心的なやり方が、大いに迷惑をかけたと思っている)。

情報機関がバイデンの命令から90日後にもたらすエビデンスで、おそらく「可能性が否定できない」から「高い可能性がある」くらいまで引き上げられることはありえるだろう。イラク戦争のさいにも、当時の国務大臣だったパウエルが小さなニューム管を振り回しながら「これが証拠だ」と強引に語ったことを思いだすのは無駄ではない。しかし、流出説の可能性のかさ上げで、アメリカやその友好国にとって何か利益がもたらされるかといえば、この点はジ・エコノミストの結論に近いというしかない。