HatsugenToday

東谷暁による「事件」に対する解釈論

五輪やめられないのは、それがヤクだから;英経済誌のあまりにも正しい指摘

いまや東京オリンピックの開催と1万人の観客付きは既定の事実になったから、あれこれいっても始まらないという雰囲気が広がっている。あの尾身先生もまるめこまれて、やれやれ、やっぱりかと肩を落とした人がいるかもしれないが、お医者さまとはいえ、もともと官僚なんだから、まっこうから対決するのを期待するほうがどうかしている。

f:id:HatsugenToday:20210619145912p:plain


分かっているけど腹が立つことばかりだが、英経済誌ジ・エコノミスト電子版6月19日号を見ていたら、「いったんスポンサーが大儲けできることが分かったら、オリンピックはヤクになった」というコラムが載っていた。これも「分かっているよ、うるさいなあ」と思ったが、以前に掲載された「日本がオリンピックに無理やり突入するのはナショナリズムのせい」とかいうコラムより、よっぽどましだと思ったのでちょっと書いておきたい。

 だいたい、日本がオリンピックに突入するのは、ナショナリズムなんて立派なものが理由になっているわけがない。ナショナリズムというのは、明治時代の陸羯南の翻訳では「国民主義」であり、国民を第一に考えて政治を行うのがナショナリズムだった。いまの日本の政治家に、もっといえば、いまの自民党の政治家にそういう立派な人はいますかね?

 わざわざ取り上げているのに、同誌のコラムは大したことを書いているわけではなく、例によって1984年のロサンジェルス・オリンピックから商業主義に傾斜してしまい、それでスポンサーが大儲け(同誌は「ボナンザ」という言葉を使っている。僥倖での大儲けという意味で、もともとは「もうかったあ!」みたいな意味のスペイン語)するようになったのが問題なんだと、例によって持って回った表現で書いている。

 そもそも、わたしはオリンピックが決まったときから、「こんなのやらないほうがいい」と表明してきた。もちろん、それ以前からうんざりしていた。だから、日本が選ばれた(だいたい、開催してあげるのに、なんで「選ばれる」ようにゴマをすり、果ては買収しなけりゃならないんだ)ときに、たまたま出たラジオ番組で「私は反対ですよ」と言ったら、アナウンサーが困った顔をするかと思いきや。すぐに、湿っぽい音楽に切り替わり、読み上げるリスナーの葉書も、反対派のものに差し替えられたのには驚いたものだ。

 このとき述べたのは、もうクーベルタン男爵が述べたオリンピックの精神なんて、完全に踏みにじられているし、アマチュアリズムのかけらも残っていない。意義があるとすれば、それは1964年の東京オリンピックのように、途上国や経済停滞国が経済を刺激するために、カンフル剤あるいは刺激剤としてやることに尽きる。だから、日本はいちおう世界3位の経済大国なのだから、今回は途上国に譲るべきだったと申し述べたわけである。

 どうでもいいけど、1964年の東京五輪では、日本はインフラも入れると当時の国家予算の3分の1に相当する財政出動をして、60年代の急成長を加速するのに成功している。しかし、2020年の東京五輪に立候補していたころは、まだ、そして今もそうだが、東日本大震災の復興も途上にあった。その後、東京で土建業が潤ったことは確かだが、そのせいで東北では人件費が高騰して、復興が停滞してしまったことは記憶にあたらしい。もう、この時点で、今回の東京オリンピックというのは、一部の受益者のボナンザであり、本来の羯南がいったようなナショナリズムなどではなかったのである。

f:id:HatsugenToday:20210619150119p:plain

The Economistのコラムより


とりとめのない文章になっているが、ジ・エコノミストの記事について、ひとつだけ触れておくと、同誌は五輪突入が決まったことで、日本がワクチンの接種に本気になったことを挙げている。こうした、あわてふためく日本のナショナルをからかっているのだが(その様子をメティキュラス=細心なという言葉で表現しているが、言葉通りに受け止めるのはバカですね)、これだけは本当のことだろう。

 しかし、これだって、本来は4月ごろにはナショナルの大半に接種を終えて、悠々と選手団に「日本の費用で」ワクチン接種をするといっていたのだ。この点についても、いまの菅政権はまったく失敗したわけで、五輪突入する大義はもうまったくなくなったのだ。いまも失敗の連鎖がえんえんと続いているのに、平気で国民に陰気な顔を見せているというのが現実なのである。