HatsugenToday

東谷暁による「事件」に対する解釈論

いまや世界的に「大きな政府」の時代になった;それが繁栄と幸福をもたらす保証はない

いまや世界的に「大きな政府」が普通になっている。いや、それどころか「巨大な政府」と呼ぶべき様相を呈しつつある。この現象については、コロナ禍だけでなく経済成長の長期停滞が原因だとして、すでにさまざまな議論が展開している。しかし、規模において壮大で多くの問題含みの現象だというのに経済問題に偏しており、薔薇色の着色が施してあるのが奇妙というしかない。

f:id:HatsugenToday:20211121135040j:plain

 

最近も英経済誌ジ・エコノミスト11月20日号が「世界は大きな政府の時代に入りつつある」という特集を組んだが、社説の副題が「古典的リベラリズムはいかに反応すべきか」という、いたってアカデミック風で思想的な問題として捉えているのが不思議だった。

同誌の特集リポートは「世界の政府が大型化するのを止められない」とのタイトルで、この大型化を生み出しているのは3つだと指摘している。第1が、一種の慣性ともいうべきもので、有権者ロビイストたちが「自分たちの利益」をもとめて規制を生み出し財政支出の対象を探し求めているためだという。

第2が、「生活の維持・向上」を求めて国家の提供する健康や教育への支出を大きくする傾向である。そのことで政府が目的を達成できなくとも、テリトリーを拡大すれば一定の成果だとされるが、これは政府だけでなく民間にも見られる「ビョーキ」といえるという。

第3が、「政府がやるべきことが多様化」して、国民が豊かになればなるほど、よりよい教育を求め、また、高齢化すればするほど政府支出は多くなるというわけである。これはコロナ禍での国民全員への無料ワクチン接種を目撃すると、こうした事態がもう当たり前のように感じられる。

この3つは、実は、1970年代にフォン・ハイエクが『自由の条件』のなかで福祉国家を批判したときの概略図とそれほど違わない。それは今回の特集が、ハイエクフリードマン(2人は思想が根本的に異なるが、しばしば2人をセットに考える傾向がある)の信奉者あるいは同調者たちが書いているからではないかと思われる。

f:id:HatsugenToday:20211121135127j:plain

ジ・エコノミストより;政府支出の対GDPは急激に上昇している


もともと、ジ・エコノミスト誌は「古典的リベラリズム」から生まれた雑誌であり、19世紀の穀物条例反対運動の支柱となっていた。そうした歴史からすれば、社説とリポートの視点は不自然ではない。念のために述べておくと、この「リベラリズム」という言葉は、当時は自由貿易を重視する思想だったが、それがアメリカでは、いつの間にか社会福祉を重視する民主党左派を指すようになったが、どうやら同誌はいまも「古典的」な用語法に従っているようだ。

それはさておき、同誌が挙げている「大きな政府」への動因の3つは、なんとなく物足りない感じがする。同誌は経済誌でありながら、政治や社会についての視点を常に持っているのだが、「大きな政府」の特集はあまりにも経済問題に偏っている。何が欠けているかといえば、いうまでもなく国際構造と政治の問題、ストラテジーとポリテイクスである。

f:id:HatsugenToday:20211121135245j:plain

ジ・エコノミストより;政府の巨大化を国内問題だけで論じる傾向は強い


第1次世界大戦が終わったとき、世界は新しく巨大な課題が目の前に横たわっていることに気がついていた。技術や経済(そして国民)を投入する巨大な戦争を行うために「総力戦」となることによって、実は政府というものが19世紀的な夜警国家には留まらないことがもう分かっていた。また、大戦と同時進行したスペイン風邪の猛威を経験したことで、国民の衛生管理が大きな問題であることに気がついていた。そして、大戦中に生まれた共産ロシアという新しいタイプの国家の脅威も明らかだった。

ところが、先進諸国はこうした政府の巨大化、国民の福祉、共産主義という大きな問題に対して、最初のころは強い警戒と反発をしたものの、自国の経済は未曽有宇の経済的自由主義に傾斜するという不思議な対応をとったのである。やってきたのは、アメリカに代表されるバブルとその崩壊だった。1929年から始まる世界恐慌への政策転換は、「赤い1930年代」という概念が残っているように、大戦とパンデミックが提示した挑戦への遅ればせの応答だといえた。

その有力なひとつの対応がファシズムとナチズムであったと述べたのは、若き日のドラッカーで、彼は自由主義にも社会主義にも失望した人たちのなかからファシズムとナチズムが生まれてきたと分析している。すでに1930年代には共産主義運動が広がると同時に、ヨーロッパにはソビエト連邦の悲惨な現実も伝わっていたのである。

f:id:HatsugenToday:20211121135409p:plain


こうして歴史を振り返ったときに、現在の課題は1970年代の先進諸国の国内的な問題とのアナロジーで把握するには、あまりに大きな問題が並んでいる。むしろ、第1次世界大戦後の極端な経済自由主義と国民への健康や教育の提供という問題に加えて、異質な巨大国家の存在つまり中国という新しいタイプの共産的資本主義国家がさらに巨大化している。その圧力を前提として、いまの「大きな政府」を考える必要がある。いまの不良債権問題は確かに大きな事件だが、それで中国という存在そのものがなくなるわけではない。そこには経済問題だけでなく戦略上の問題もあり、そして先進諸国の経済体制そのものへの懐疑が含まれている。

1990年にソ連と東欧の社会主義国が崩壊したとき、もはや社会主義などを目指す国家は出てこないだろうと思われた。それどころか、アメリカでは1970年代のリベラル(福祉国家を目指す社会政策を重視する立場)も、まったく顧みられなくなった。登場してきた民主党の大統領候補のスローガンが「問題は経済だよ、馬鹿だなあ」というものだったことを、その背景を含めて思い出すべきだろう。

f:id:HatsugenToday:20211121144446j:plain

afp.comより;ベルリンの壁崩壊


私の経験からしても、30年後にマルクスに関する本がベストセラーになったり、ケインズの理論を変形させた楽天的な経済学が、一度も経済を勉強したことのない人たちの信仰対象になるなどとは思わなかった。1990年に東ベルリンの街を歩いて、いたるところに荒廃をみたとき、いかなる形態にせよ社会主義を肯定的に論じる保守主義者が出てくるなどということは、想像することすらできなかった。

しかし、いまでもこれまでの歴史的経験は、思い出すに値すると考えている。1919年、第一次大戦が終わったときの状況、1990年に冷戦が終わったときの状況を、もういちど現在の状況と比べてみることは無意味ではない。それは苦い反芻の行為である。もちろん、個々の事件については厳密な意味では歴史は繰り返さない。しかし、そのモードにおいて、古い言葉でいえば時代精神において、やはり歴史は繰り返すものだと思うのである。