HatsugenToday

東谷暁による「事件」に対する解釈論

英国の学生に流行する「スタディ・ドラッグ」とは何か;頭をよくする薬をめぐって悩む有名大学

英国にある有名大学の学生たちが、試験を受けるさいや論文を書くために、頭脳が明晰になるクスリを使っているという報道があった。小説や映画に登場するような、最先端の知能促進薬が発明されたのかと思ったが、どうもそうではないらしい。そうした昔のSFまがいの最先端ハイテク物語ではなくて、かつてもあったし、いまもいたるところにある、ありふれた光景がそこには見られるだけなのだ。

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英紙ザ・タイムズの12月27日付に「『スタディ・ドラッグ』が有名大学で流行している」という記事のタイトルを見て、新しいバイオ薬ができたのかと思った人は私だけではないだろう。出だしも「英国の有名大学の学生たちは、試験に備えるためや、論文提出の締め切りに間に合わせるために、効率を上昇させる『スタディ・ドラッグ』を常態的に使うようになっている」というのだから、そう思わないほうが不思議だろう。

たとえば、まだ治験中のその薬を服用すれば、脳の機能が何倍かに加速され、試験のための復習でも、論文を書くための文献読み込みも、あっという間にできてしまう。お陰で英国のオックスフォード大学、ケンブリッジ大学エジンバラ大学ロンドン大学の秀才君たちは、大学生活を謳歌しながら、やすやすと試験を通過し、論文を提出できるようになった。しかし、そこには落とし穴が待ち構えていて、ある日、気がつくと薬の副作用が大学生たちをむしばんでいた……という物語を想像してしまいたくなる。

しかし、同紙に一挙に3本も掲載された、互いに関連する記事を読んでみると、こうした構図がまったくないわけではないが、「スマート・ドラッグ」とも呼ばれる肝心の薬というのが「モダフィニル」という覚醒剤にすぎない。しかも、2本目の記事によると、1錠2ポンド(約310円)でしかなく、常用者である学生によれば「コーヒー代よりずっと安く、しかも1日は効き目がもつ」というのだから、頭の中をめぐった昔の東宝系SF映画は、たちまち消えてしまった。

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とはいうものの、留学生を含めて英国の有名大学で学ぶ学生たちが、なぜそんなことをしなければならないかと考えれば、そこにはまったく別の問題が横たわっていることに気がつく。まず、ザ・タイムズが、フレームワークとして提示してくれている問題から見てみよう。もともと、モダフィニルという薬は睡眠障害や注意欠如・多動性障害(ADHD)に使われる薬で、突然に眠くなったり、注意力がなく立ったり座ったりする症状を抑えるものだった。

これを眠気覚ましと集中力の強化のために使うと、かなり良い成績を収めることがわかった。そこで英国の多忙な有名大学の学生たちが、試験や論文のために使うようになり、ついには常用者が多くなったということらしい。これは高齢者はよくご存じのことと思われるが、日本でも戦後の一時期、大流行をみた「ヒロポン」という覚醒剤が、同じような目的に使われたことがあった。

戦時中、軍事目的に製造されたといわれるが、戦後、安価に出回り、しかも、禁止されていなかったので「ヒロポン中毒」が急増するまで問題視されなかった。ヒロポンの広告は新聞や雑誌に堂々と掲載され、小説家のなかには座談会の最中に自分の腕にヒロポン注射をするので有名だった人物もいた。有名大学での試験勉強や司法試験に使ったという「武勇伝」を語る往年の元秀才君はけっこういたものだ。しかし、1951年には「覚醒剤取締法」によって違法薬物に指定され、それからは次々と同法違反で検挙されたが、それでもヒロポンは闇で売られたので中毒者が増えて、激しい取り締まりが展開したことでも知られている。

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もちろん、英国でも大勢の学生たちが覚醒剤中毒になられてはたまらない。ロンドン大学の心理薬物学者のデヴィッド・タイラー教授は「モダフィニルは、ごくまれにだが、心神喪失や妄想を引きおこすことがある。常習をやめれば、こんどは鬱症になってしまうこともあるだろう」と警告している。これがまずひとつめの問題で、副作用があって危険だということである。

もうひとつの問題は、たとえそうした副作用の問題がないとしても、試験や論文でドラッグを使って他の人と競うのは「フェア」といえるかということだ。同紙では、バッキンガム大学の前副学長アンソニー・セルドンが述べている。「それはアンフェアなことだ。ドラッグはアドバンテージを与える。われわれがこのドラッグの長期的な影響を知らないことも危険だといえる。お前がドラッグを使わなければ、お前は間抜けになってしまうぞというのでは、学生に使えとプレッシャーをかけていることになるだろう」。

こうした「副作用」が憂慮されるという問題と、「フェア」ではないという問題が、議論の軸となっていくと思われるが、しかし、実はこの軸がどこまで成り立つかどうかが、3本目の「モダフィニルのようなスマート・ドラッグのドタバタ」にスケッチされている。この短い論評で述べられているのは、この「スマート・ドラッグ」の本来の薬効から得られるメリットと副作用だけとの比較考量では、学生の使用を論じるにはかなり難しいということである。

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たとえば、モダフィニルは純粋に医療においても、多くの症状を抑えるすぐれた薬として使われている。脳の働きを活発にするだけでなく、副作用が少ないことでも知られている。すでに学生が使うようになっただけでなく、長時間緊張して働いている職場(たとえばトレーダーたち)にもお馴染みのドラッグとなっている。とくに、医療現場で長時間働く医師たち(外科医を含む)にとって、カフェインのように手の震えが起こらない有難い薬として重要になっている。とはいえ、モダフィニルを使えば「頭のよさ」が増すわけではないことは明らかだろう。

そのいっぽうで、副作用についてみておくと、害として知られているのが頭痛で、使用した患者の21%くらいに見られるが、それは普通は軽く穏やかで数日で消える。神経症不眠症、不安感、憂鬱、思考の異常、錯覚、いらつきなどが、1~10%の患者に診られる。また、幻覚、偏執、精神病などはごくわずかで0.1%以下。チェスなどを使った実験では、使わないときより判断にやや時間がかかるというのも、副作用といえばいえるということである。

微妙な話としては、大学の図書館周辺でモダフィニルが取引されているらしいが、そこには苦学している留学生の姿が頻繁にみられるということだ。また、やはり巨額な奨学金を抱えてアルバイトに忙しい学生が、試験や論文を切り抜ける時間を捻出するため使っているケースが多いという。健康をかなりの程度犠牲にしているわけで、これは学費の捻出と支援の欠如の問題を、改めて浮かび上がらせることになる。さらにこれは高度教育の推進が、自己責任なのか公的責任なのかも議論されるべきだろう。

これから英国の大学はこの「スタディ・ドラッグ」の扱いについて議論を始め、2022年末までに一定の方針を打ち出すそうである。なんとも悠長な話だが、ここに紹介したデータがほぼ正しいとして、モダフィニルの特性だけから、何かの規制を決めるというわけにはいかないだろう。副作用が中毒と著しい健康破壊というひどいもので、弊害が明らかだったヒロポンではないからだ。

この問題は、対象になっている薬効と副作用が、微妙な領域に位置しているときの対処がいかにあるべきかを問いかけている。覚醒剤という分類だけでなく、その使用法にも考慮の対象を広げ、社会的な貢献をも考慮し、そのなかに学生の生活を置いて、まさに総合的な判断で決めていかなくてはならない。いまのところ規制に相当する処置をとっているのはエジンバラ大学だけで、それも学則に学生として裏切りだと指摘しているだけらしい。おそらく、学生たちのモラルや自制心に訴える部分が多くなると思うが、たとえ規制したとしても、こっそり使用した学生を、ドーピング・テストの末に罰するということは、かなり難しいのではないかと思われる。