なぜロシア軍はウクライナのキエフを攻略できないまま、戦車を渋滞させているのだろうか。もちろん、その理由はいろいろ論じられているが、有力な説が「兵站(補給線)」の問題と、「軍事テクノロジー」の問題だ。しかし、そんなことは侵攻を決断する前に分かっていたことではないのだろうか。
独フランクフルターアルゲマイネ紙3月14日号は「ロシアの兵站問題 射程距離の小さな軍隊」を掲載して、軍事専門家たちにロシア軍が兵站の問題を抱えたまま、ウクライナ侵攻を決断してしまったロシアの失態を指摘している。典型的なのがベラルーシ国境から140キロほどしか侵攻できていないことで、いまもキエフ市内に対する攻撃は、おもにミサイルによっている。
「ロシア軍の補給線能力は、鉄道ネットワークからあまり離れて、本格的な攻撃ができないようにデザインされているのです」と指摘しているのは、アメリカの兵站専門家であるアレックス・ヴェルシニンだ。彼はインターネット上に論文を投稿して、ロシア軍のおどろくべき旧態依然を論じている。
ヴェルシニンによれば、ロシアの進軍は140キロがせいぜいで、実際には80キロから100キロまでしかウクライナ領に入っていない。それはロシア軍の兵站がいまの戦争に相応しくないのに、それを改造することなく今度の戦争を始めてしまったことによる。「他のヨーロッパ諸国の軍隊は、ロシアほど鉄道網に依存するシステムになっていない」とヴェルシニンは語る。世界で最も広大な国ロシアは、シベリアからベラルーシにいたるまで、その広大さゆえに、いまも鉄道を使っているというわけだ。
たとえば、アメリカの軍隊の場合、ロシアよりずっと活動範囲が大きいとヴェルシニンは指摘する。それは、軽い装備で戦うことを可能にしたからだという。「アメリカの旅団(約3000人)は、ふつうは1歩兵大隊(約600人)と航空中隊(約150人)が含まれる構成になっている。それに対してロシアの旅団は、2つの歩兵大隊とロケット発射台と対空砲をもった1つの大隊を抱え込んでいる。
こうしたロシア軍において、もっとも問題なのは輸送手段がアメリカ軍に比べてはるかに少ないことだとヴェルシニンは述べて、いまのウクライナ戦争におけるロシア軍の実情を次のように計算している。「ロシア軍にとって、1日の戦闘に必要とされる補給は、さまざま計算すれば最大で140キロというということになる。もし、司令官がそれ以上の距離を要求したとすれば、彼らは、戦場で必要な物資の安定供給が、もはや不可能になってしまうのだ」。
いっぽう、ジ・エコノミスト3月14日号は「装甲した乗り物 ウクライナで戦うロシアの戦車はカゴをくっつけている」は、ちょっとシニックな書き方をした、ロシア戦車のテクノロジー上の欠陥を指摘した記事だ。アメリカと西側諸国から供与された対戦車ミサイルや対戦車武器によって、ロシアの戦車がかなりの損害を被っていることは報道されている。それはどうしてかを分析したものである。
同誌は多くの専門家に取材して、ロシアの戦車の多くが砲塔の部分に載せている網状の覆いが、ほとんど実質的な効果がないことを指摘している。アメリカおよび西側諸国から供与された武器は、たいがいが戦車の装甲を破って、戦車内で爆発するようにできている。細かな話は省略するが、いま使用される対戦車用の武器は、威力の小さいものでも、30センチの厚さの鉄板を破って戦車の内側で爆破するので、ほとんど防ぎようがない。ところが、ロシア軍の戦車にはカゴのような金属な網がついているのだ。
ここから同誌はさまざまな推理を重ねるのだが、結論として効果はほとんど期待できないはずだという。おそらく、いまのミサイルにはタンデム型というのがあり、これは装甲部分を破壊する爆発物と内側に入ってから破裂する爆発物がセットになっている。そこでロシア軍は、カゴみたいな鉄製の網で装甲部分に至る前に破裂させ、内側に入り込まないようにしているのではないかというのだ。しかし、これは専門家たちにいわせてば、ほとんど効果がなく、当たれば内側もろとも破壊されてしまう。
また、このカゴが砲塔部分だけに着けてあるので、上方からの攻撃に備えるためのもので、たとえば市街戦を前提としているのではないかとの説もある。しかし、やはり、この発想は奇妙なもので、戦車の砲塔より下の部分は裸になっているので、横から攻撃されれば何の意味もないというわけである。
結局、同誌はこのカゴは単なる「気休め」でしかないのではないかという説に傾いている。昔、アメリカで狂信者たちの暴動があったさい、彼らは弾丸があたらないといわれるシャツを着ていた。もちろん、これは単なる思い込みで、暴動の後には、このシャツを着た死者が大勢横たわることになった。それと同じで、ロシア軍の戦車隊は見かけは恐いが、こうした「気休め」によって戦闘しているという推測でこの記事は終わっている。
戦争においては、現代においても、あきらかに非合理的と分かっているものに、異様な思い入れをする現象が生まれる。その点、太平洋戦争の末期における日本軍においても、あまり違っていなかった。クラウゼヴィッツのいう「戦場の霧」はもちろん「戦場の妄想」も防ぎようがない。そしてまた、いま行われている外交交渉の報道においても、過剰なイデオロギー的思い入れがあるのは、やはり危険なことだというしかない。