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東谷暁による「事件」に対する解釈論

核兵器の「新しい時代」が来た?;単に本来の意味を思い出しただけではないか

プーチン大統領が、今回のウクライナ侵攻の直前、すでにロシアは核戦争すら辞さないという姿勢を見せた。それに対して世界は「単なる脅し」と捉えて、ウクライナ侵攻もあり得ないと受け止めた。しかし、プーチンは多くの誤算があったものの、ウクライナ侵攻に踏み切った。では、核兵器の使用はどうなのか。プーチンは多くの誤算をしてしまう独裁者だからこそ、その脅威は存在していると考えるべきだろう。


経済誌ジ・エコノミスト6月1日号は「核の新時代」との社説を掲載した。同誌は「たとえプーチンウクライナ核兵器を使わないとしても、彼はすでにそれまで確立していた核の秩序というべきものを破壊してしまった」という。この「秩序」というのは、核兵器を持っていても、実際には核兵器を使わないし、敵を威嚇するさいに核兵器の使用をちらつかせることはしないということである。

では、同誌は何を根拠にプーチンがその秩序を破壊したというのか。それは、プーチンウクライナ侵攻の直前に核の使用を示唆しただけでなく、その威嚇を受けてNATOはそれまで想定していた被侵略国への(直接的な軍事)援助を与えなかった。つまり、プーチンが行った核使用の威嚇はまちがいなく効果があったというわけである。このことは2つの大きな意味があったと同誌は指摘している。

まず、第一に、ウクライナのような軍事的に脆弱な国家(これは事実と多少違うと思うが)は、外国からの侵略を食い止めるための、最低限の武装をしなくてはならないということを意味する。そして、第二に、他の核保有国は、自国もロシアのプーチンの真似をすれば、それなりに収穫があると信じるようになったというわけだ。「そうであれば、どこかの誰かさんは、核兵器で威嚇するのに、ちゃんと効果があると確信することになるだろう」。


ここでいう「どこかの誰か」はすぐに想像がつくが、こうしたプーチンが破壊したとされる核の秩序というものは、旧ソ連が崩壊したときに生まれたと思われてきた。しかし、それをまさに旧ソ連の発想をもっているプーチンが、いとも簡単に壊してしまったわけで、実は、あやうい仮説上のものか、幻想でしかなかったのである。

こうした核の秩序の「崩壊」を受けて、日本でも核武装について議論されるようになったのは当然といえる。ただし、それが呆れたことに、アメリカとの「核の共有」に走ってしまったのは、この種の議論を始めた人物たちの核兵器についての思想が、いかに貧困で隷属的なものかを、ものの見事に証明してしまった。たしか、フランスの人口動態学者エマニエル・トッドが「ナンセンス」のひとことで斬り捨てていたが、これこそ戦後日本人が信じたがっていた「核の傘」への信仰だったのである。

もうすでに、安倍晋三という人物の正体については、とことん明らかになっているというのに、彼を御輿にしてきた人間たちは、まだ担いでもぶら下がっても何らかの御利益はあると思っているらしい。しかし、この人物は憲法改正を唱えるさいに、正面から第9条の改正を推進せずに憲法改正条項の改正先行を唱え(小選挙区制が中心の選挙制度の国が、憲法改正の発議条件を議会の3分の2を条件とするのは、少しもおかしくないし珍しくない)、さらに、同条第2項の削除ではなく第3項の追加を言い出し、そして、国民がコロナ禍に恐怖していたとき、急に悪化したという病気を口実に、無責任にも逃げ出した人間である。


今回も日本の核武装を正面から論じるのではなく、最初から「共有」を打ち上げるという、ほとんど奴隷根性を丸出しにしている。しかし、1971年に周恩来キッシンジャーの秘密会談で、アメリカは日本に核武装をさせる気はまったくなく、核の傘も完全に否定している。こんなことは共有を言い出す前に、初歩的知識として思い出してもらいたかったものである。つまり、アメリカは日本と核の共有などする気はないし、核の共有というのは事実上、ボタン管理アメリカ独占=費用日本持ちの仕組みである。そもそも、核の傘が効かないことは、何人もの核理論家が指摘してきたことだ。

そのことについては、このブログに投降した「いま核の時代が『復活』している?;単に議論を忌避していただけだった」をお読みいただきたいが、面倒に思う方もおられるだろうから、文章の一部をそのまま引用しておくことにする。


アメリカが同盟国に核の傘を保障して「あなたの国を核攻撃する国があったり、通常兵器で占領しようとする国があったら、アメリカは核攻撃を辞さないことを約束する」と言ったとする。そのためには、まず、アメリカの核武装は巨大なものに膨れ上がるだけでなく、この約束が守られない場合があるという、きわめて危険な状態にアメリカと同盟国を置くことになる。

なぜなら、もし、同盟国を核で攻撃することが明らかになった国があったとき、その国をアメリカが核攻撃しても、その国に報復ができる核戦力が残存する可能性があると、こんどはアメリカの巨大都市と同盟国が核の標的になるからだ。アメリカは本当に他国のために、自国の大都市の住民を差し出すことができるかという、きわめて大きな問題がでてくるのである。》

結局、アメリカは核のボタンを押さないだろうし、日本はアメリカを妄信して核の脅威に国土を晒すことになる。この核の傘の欠陥は、そのまま核の共有にも当てはまる。故・石原慎太郎などがアメリカの軍人の言葉を引用しながら、核の傘の欺瞞を言いだす以前に、すでにキッシンジャーが秘密会議で周恩来に「アメリカが核を使うのは、自国のため以上にはありえない」(だから、日本のための核の傘などない)「核時代には他国を防衛するとしても、それは自国を防衛するためだ」(つまり、核武装は自国のためであって、同盟国のためではない)とあけすけに発言していた。なぜ、こんなことをくどくど書かなくてはならないか、しかも、初歩的知識もないような、元総理大臣のファン受け狙いの発言について言及せざるをえないかについては、単に徒労感だけがあるだけである。

 

さて、確かにいま核兵器について、ちゃんとした議論をしなければならないのは、間違いないことである。そしてまた、プーチンウクライナ侵攻にさいして、就任演説の際に述べた「我が国がもてるあらゆる資源(核兵器を含めて)をもちいる」ことを再説したことが、核兵器について世界的な議論を呼び起こしていることは間違いない。しかし、前出のジ・エコノミストがいう「核の秩序」というものは、本来なかったものであり、核は抑止力のみに使うという法則や鉄則が、現実に存在していたわけでもない。

同誌は最後の部分で、もし、プーチンウクライナ撃破を実現し、面目が保てる千日手から抜け出すため、核兵器の脅威を使えばいいと信じ込んでいるとしたら、ロシアはさらに危険な存在となると述べている。しかし、核兵器というものは、実際に使われたし、また、冷戦期の経験を思い出しても分かるように、常に使ってしまう事態が潜在的にあることで、抑止力にもなり、また、威嚇にもなるわけなのである。

 

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