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東谷暁による「事件」に対する解釈論

ウクライナ社会の裏を読む(3)ゼレンスキーの「曲芸」が終わるとき

今年2月24日にロシア軍がウクライナ侵攻を行なったときが戦争の始まりではない。それ以前に、ドンバス地方をめぐって両国は、複雑な代理戦争を続けていた。停戦のためのミンスク合意、さらにミンスク合意Ⅱが試みられたが、双方によって破られたすえに、ロシア軍の全面的侵攻に至ったというのが現実である。この2つのミンスク合意を検討すれば、いまの戦争の原因が分かるだけでなく、ゼレンスキー政権の性格も明らかになってくる。

 

このシリーズではすでに第1回目に、ウクライナという国には先進諸国のようなマスメディアは発達していないこと、ロシアと類似の財閥オルガルヒたちがメディアを支配しており、メディア改革運動が進展するなかでゼレンスキー政権も、政策の選択において大きくゆすぶられたことなどを紹介した。

また、第2回では2019年の大統領選挙のさいに、ゼレンスキーを大統領に押し上げるのに大きな役割を果たした地域は、ウクライナ東部だったことを取り上げた。この地域はドンバスを含めて、ロシアに支援された親ロシア派分離独立主義者たちと、それに対抗する右派ウクライナナショナリストたちの民兵組織が、延々と紛争を続けてきたことを述べておいた。

さて、今回はこの親ロシア派分離独立主義者たちと、それに反発して台頭した右派ウクライナナショナリストたちの戦争を、停戦に持ち込むために試みられたミンスク合意とはどんなものだったのか。そして、それはなぜ失敗するに至ったのかを、これまでと同様に、現地で現在の戦争について聞き取り調査を行った、社会人類学者タラス・フェディルコへのインタビューを中心に見ていくことにする。そして、明らかになったウクライナ社会の構造なかで、ゼレンスキーはどのように振舞ってきたのかも思い出しておきたい。


フェディルコが繰り返し述べているのは、2014年から翌年にかけてのロシアによるクリミア併合とドンバス地方への事実上の侵入によって、この地方で行われてきた親ロシア派分離独立主義者たちと、右派ウクライナナショナリストたちの武力衝突が急激に拡大したことだ。それ以前については、2005年のウクライナでの「オレンジ革命」について、簡単に触れる程度にとどめている。2005年、親ロシア派のヤヌコヴィッチが、親EU派のユシチェンコを破って大統領となったとき、親EU派が激しい抗議行動を行なった。これが「オレンジ革命」と呼ばれている。

オレンジ革命」というからには、革命政権が成立したのかと錯覚してしまうが、そうではない。当時、他の東欧諸国でも改革運動が広がっており、それぞれが特定の色をシンボルにしていたので、ウクライナの親EU派はオレンジを用いたにすぎない。ただし、ここで念頭におきたいのは、この時点ですでにウクライナは、親ロシア派と親EU派に大きく分裂していたことだ。この分裂は解消されることなく、ドンバスでは親ロシア派の分離独立主義者が勢力を持ったが、それに対抗する右派ウクライナナショナリストたちの民兵組織も生まれた。しかしそれはまだ「路上でのこぜりあい」程度のものだったらしい。


こうした分裂が継続するウクライナにおいて、2013年にヤヌコヴィッチ大統領がEUには参加しないことを明言し、親ロシアを明瞭にしたことで生じたのが「ウクライナ騒乱」つまり、親EU派による「マイダン革命」であることはすでに述べた。この「革命」のほうは、アメリカによる水面下の支援もあったおかげで(これが決定的だったという論者もいる)、ヤヌコヴィッチ大統領は国外に脱出せざるを得なくなり、マイダン派は国内各地で政府関連施設を占拠している。フェディルコは指摘する。

「私たちが理解しておかなくてはならないのは、マイダン派の活動、反マイダン派の抗議行動、クリミア半島の占拠、ドンバス地方での戦い、こうした一連の出来事が長期にわたる国内の対立を加速させ、長年にわたって経済エリートたちも、こうした対立に加担してきたということです。社会経済的な不満は、文化的あるいは地政学的な忠誠心をあらわす標語に翻訳され、歴史的な記憶をもつ代替的な規範にまで高められてしまう」

ドンバス地方での2014年からの戦争は、ドネツクやルハンシクの政府関連施設を占領している親ロシア派分離独立主義者たちを、ウクライナ政府軍が鎮圧する一連の戦闘作戦として開始された。とはいえ、この時点において正規のウクライナ軍の部隊で、戦闘の準備ができているところはほとんどなかった。

ゼレンスキーはいま、さらなるNATOの武器援助を要求している


そこで2つの方法で戦闘を可能にした。「第一が、軍隊をサポートしてきた武装活動家たちが、国軍からの兵站の補給を引き受けた。つまり、正規軍や準正規軍に、制服、銃弾、光学機器、砲撃弾道ソフトなど、必要なものすべてを供給した。第二が、義勇軍部隊を投入した。彼らは親ウクライナ民兵武装集団で、正規軍あるいは情報機関の命令下にあり、義勇軍や自律性のある部隊からなっていた」。こうした武装集団の司令官の中には、与党がカリスマ性に目をつけた人物もいて、2014年の選挙に立候補させたという。

このウクライナ側の作戦は、2014年夏の終わりころまではそれなりの効果をあげるが、今度はロシアが親ロシア分離主義者たちへの援助を拡大し、さらには偽装正規軍まで繰り出して、多くの義勇兵からなるウクライナ軍を、いくつかの戦線で破って撤退させる。2014年9月にベラルーシで交わされたミンスク合意は、本質的には軍事的に優勢なロシアによって、ウクライナに押し付けられた停戦協定だった。

しかし、すぐにこの合意は双方によって破られ、ロシア側のさらなる勝利の後に、翌2015年2月、ドイツとフランスが仲介してミンスク合意Ⅱが成立する。このミンスクⅡは「非合法的な武装グループの武装解除」を命じていたので、ウクライナ軍はそれまで正規軍にしていなかった武装集団を、急いで正規軍に入れ込んでいくことになる。このとき、正規軍の官僚主義を嫌って部隊を解体してしまうグループもいたが、マリウポリ防衛戦で名を馳せたアゾフ連隊など、相対的な自律性を条件に正規軍に加わったグループもいた。このことは第2回でも触れている。

ウクライナ東部では親ロシア派と右派ナショナリストとの戦いが続いた


さて、このミンスク合意Ⅱだが、成立過程からして想像できるように、ロシアに都合よくできていた。「ミンスク合意はきわめてウクライナよりロシアに有利なものだった」とフェディルコもあっさりと指摘している。その内容は大きくわけて軍事的な部分と政治的な部分に分かれていた。まず、軍事的な部分だが、OSCE(欧州安全保障協力機構)のラインに沿った停戦と武装解除についての記述があり、戦争捕虜の交換などの条項が並んでいた。では、この軍事的な条項が守られたかといえば、やはり守られなかった。

「ドンバスでの戦いは、初めから2014年秋まで、戦場はチェス盤の様相を呈していました。つまり、統一されたひとつの戦線がなかったのです。親ロシア派分離独立主義者たちが支配している村と、ウクライナ政府側の部隊が支配している村が、混在している状態だったわけです。ドネツクとルハンシクの2つの『人民共和国』が独立を宣言しても、その権力は集約されずに、バラバラな武装集団が勢力を競っていた。それはゆっくり変わったものの、(ミンスク合意によって)大型の兵器は戦線から引き揚げられたので、戦いは陣取りゲームとなりました。それからの7年間(ロシアのウクライナ侵攻まで)、ドンバスでの戦争は、ほとんどが大砲の支援がない歩兵たちの戦いによって継続されました」

ウクライナは民族と言語についても複雑な構造をもっている


停戦は繰り返し宣言されたが、それらは繰り返し両勢力によって違反が行われた。ウクライナ正規軍は公的に戦闘することが許されなかったので、戦いのほとんどは非正規の部隊によってなされていた。フェディルコが直接面談した元ウクライナ非正規部隊のメンバーによれば、ロシアに支援された親ロシア派と戦うため、非公式な軍需品を使い、非正規の作戦のために義勇兵を雇い、民生用ドローンに爆弾を積んで敵を爆撃した。もちろん、親ロシア派も、停戦の宣言や兵器の撤去などの隙間をぬって、彼らの勢力を拡大しようとした。ウクライナ側の非正規部隊では、ミンスク合意というのは親ロシア派を有利にするためのペテンだと思う者が多かったという。

いっぽう、ミンスク合意Ⅱの政治的側面だが、親ロシア派分離独立主義者たちが支配している地域での選挙を要求していた。また、非合法的な戦闘に加わった者に各種の恩赦が与えられ、さらにはウクライナ政府に分離派支配地域への一定の自治を認めるよう憲法改正を求めていた。しかも、ロシアとの国境に接する分離派支配の州における権限強化が含まれていた。「このミンスク合意Ⅱは、当然のことながら、EU派のウクライナ政治エリート、親西側派のウクライナ市民、そして右派ウクライナナショナリスト武装勢力に激しい反発を引き起こしました」

「もし(そのまま)ミンスク合意Ⅱが実行されていたら、その政治的部分は、ウクライナが、NATOなどのロシアにとって不都合な国際組織に属すことを不可能にしていたでしょう。そして、ほぼ間違いなく、それこそがロシアが最初から考えていたことだと思います。ドンバスでの(親ロシア派分離独立主義者を通じての)戦争は、ロシアにとって、ウクライナNATOに加わらせないための手段であり、そしてまた、現在の(ロシア軍による)ウクライナ侵攻も同じものです」


では、そもそもこのドンバス地方が親ロシア派の基盤となっているのは何故だろうか。フェディルコは、ドネツクとルハンシクがロシアとの経済的結びつきが強いことをあげている。「このドンバス地方はウクライナの産業の中心地であり、たとえ数十年間にわたって投資が低下していてレベルが落ち、生産性が下がっていても依然そうなのです。この地域の労働者たちにとっては、(ロシアとのつながりを捨てて)ヨーロッパのマーケットと繋がっても、短期的には直接の利益にはならないと思っているのです」。

この問題については、さまざまな議論があり、たとえば政治学者ユリ・ジューコフによれば、ドンバス地方におけるドネツクやルハンシクは「むしろロシアとの貿易ショックにさらされ、紛争を通じて親ロシア派分離独立主義の暴力による高い緊張を経験してきた」という。だから、実はロシアは経済的にもドンバスに恩恵をもたらしていないということだろう。また、ジューコフは「この分離独立派に対する支援の盛り上がりを、民族や言語のファクターで説明するのは間違っていると指摘している」。つまり、この地域がロシアと民族的にも近く、ロシア語を使う人が多いということで説明するのは間違いだというわけである。では、フェディルコはどう見ているのか。

ジューコフの指摘は論争の的となっていますが、私は民族・言語的なファクターは全体像を描くさいに重要な要素だと思う。とはいえ、私たちはドンバスでの産業を支配している経済エリートが、重要であからさまな分離独立主義者への支援をしたという例を目撃してはいません」とフェディルコは述べている。それではロシアとドンバスにおける結びつきにおいて、経済的ファクターは小さいのだろうか。そうではないとフェディルコはいう。

「ドンバスの有力者たちが、西側諸国にうながされて導入し、彼らの特権を台無しにしてしまいかねないマイダン以後の改革に対して、強く反発したことは確かです。ウクライナ東部の地域エリートたちによる、分離独立主義者たちへのそれなりの支援はあった。ただしそれは、首都キーウにおける政治勢力の変化や、地政学上の転換によって損失をこうむることになる、地方政治家や中位官僚によって行われてきたと思われます」


日本のような国でも、全国での政治および経済の構図と地方での構図が異なっていることは多い。ましてや、ロシアとNATOに挟まれたウクライナのなかで、それぞれの地方の利害関係が異なっていることは当然のことかもしれない。しかし、そうした国内の未来像の大きな違いが、いまや国家そのものの統一と存立を脅かしている。こうしたフェデリコが提示してくれている、ウクライナという国家の構造を踏まえて、現大統領であるゼレンスキーという人物の、政治家としての履歴を少しだけ振り返ってみよう。

ゼレンスキーはまだソ連が存続していた1978年、ウクライナ社会主義共和国の東部クルィヴィーイ・リーフに生まれている。ユダヤウクライナ人で研究所の研究者である父とエンジニアの母の子。母語はロシア語であり、ウクライナ語は苦手だったといわれる。キーウ大学クルィヴィーイ・リーフ校法学部を出てから、俳優の道を選びコメディアンとして成功したという話はもう周知のことである。

コメディアンとして注目されたのは、ウクライナ・オルガルヒであるイーホル・コロモイスキーが経営しているテレビ局で活躍するようになってからだった。コロモイスキーは才能のあるゼレンスキーに期待したらしく、下品なネタ(両手を使わずに体の一部でピアノを弾いた)も荒唐無稽な企画(国民に称賛されて大統領になる人物を演じた)も是認して成功させている。政治家になってからもコロモイスキーとは親しく、その意味ではゼレンスキーはウクライナ・オルガルヒに接近したのではなく、実は、最初から、この冶金産業で台頭したオルガルヒとの関係は深かったことになる。

緑色がゼレンスキーが選挙で支持を得た地域。色が濃いほど支持率も高い

 

2019年の大統領選挙でゼレンスキーは、東部と南部で圧倒的な票数をかせいだ。オレンジ革命やマイダン革命の支持者だったというが、ほとんどロシア語しかしゃべらない候補者が、東部と南部で支持を得られたとしても、西側諸国との結びつきが深いリビウ周辺でほとんど支持を得られていないのは無理ないと思われる。オレンジ革命やマイダン革命の支持者という説とはかなり矛盾するが、大統領選挙ではロシアとの停戦を続ける姿勢を示しており、それが東部と南部の圧倒的支持につながったといわれる。

興味深いのは大統領に当選してからウクライナ語の猛特訓を行なって、記者会見でもウクライナ語を話せるようになったとのエピソードで、すでにこのときから東部・南部に支持された政治家から脱却を試みていたのかもしれない。フェディルコは第1回で紹介したように「ゼレンスキー大統領は2019年の選挙で、ウクライナとロシアとの対立を回避していく平和プラットフォームを提示して、73%もの支持を得て当選した」と述べている。しかし、かなり早いうちから、このプラットフォームから自ら離脱し、EUやNATOへの参加を目指すようになっていた。

こうしたゼレンスキーの「転向」については、日本の研究者やアナリストたちも、当時は懸念を示す文章を書いていた。それはロシアとNATOとの関係について、多少の知識がある者ならば同じ感想をもったことだろう。そしてゼレンスキー政権下、右派ウクライナナショナリストたちは、ドンバス地方でトルコ製のドローンを用い、親ロシア派分離主義者たちの拠点を攻撃するようになっていく。フェディルコがいう「ウクライナ西部と都市部の中間層に支持を受けているナショナリスト的で欧米寄りの新自由主義的な陣営と、産業化されている南部と東部の比較的親ロシア的な勢力」との間で、ゼレンスキーは明らかに前者に傾いていていくのである。


ただし、この転向を前出のコロモイスキーの圧力と考える人がいるかもしれないが、これにもまた複雑な問題がある。ゼレンスキーが最も頼りにしているアメリカは、たしかにいまはウクライナのオリガルヒを含む経済エリート勢力と接近しているが、このコロモイスキーについては、ドニプロペトロウシク州知事時代に不正蓄財を行なったとして、家族を含めて入国禁止処分にしている。何でも説明してくれるような、オールマイティ・カードによるレッテル貼り的「包括理論」では、ウクライナを見るにはあまりに単純すぎる。あるいはウクライナが複雑すぎるのだ。

こうした札付きオリガルヒと関係の深いゼレンスキーについても、ロシアが侵攻しなければアメリカは要注意人物としていたかもしれない。いまゼレンスキーが必死に西側に武器供与の追加を「命じている」のは、ウクライナ国民をひとりでも救いたいからであることを、私は疑わない。しかし、この戦争が終わったとき、果たしてこの人物が、そのまま世界に称賛され続ける保証は何もないと考えている。

ドンバス地方での戦いがロシアの優位になっている現在、ひとつの岐路を迎えていることは間違いない。これまでのゼレンスキーの「曲芸」のような政治は、ひたすらアメリカを中心とする西側諸国の武器援助に依存することになった。しかし、この援助について西側にも「疲れ」が出てきたといわれる。

疲れが出てきたという話はロシアによるプロパガンダだという説もあるが、もはやウクライナが自力で勝てない戦争に、援助を続ける西側首脳やアメリカ人に去来するのは、長引いた末に腐敗を生み出し、最終的には撤退したベトナム戦争やアフガン戦争という悪夢だろう。ゼレンスキーやアメリカのタカ派は、あたかもウクライナが自由と民主主義の砦のように語っているが、それはあまりにもこの国の現実とは異なる。そしてそのことは、世界中の人びとがじわりと気がつき始めているのである。

 

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