HatsugenToday

東谷暁による「事件」に対する解釈論

ゼレンスキーの「正体」(1)圧倒的勝利の大統領選がもたらした闇

7月9日、ウクライナ政府は、ドイツ、ハンガリーチェコノルウェー、インドなどに駐在している自国の大使を更迭した。どの国も、いまのウクライナにとって、同時にゼレンスキー政権にとって重要な国ばかりである。その理由は明らかにされていないが、ゼレンスキーがこうした「急激」で「不可解」な人事を行うのは初めてではない。今回は何があったのか。言い換えれば、ゼレンスキー政権の背後でいま何が動いているのか。


ロシアがウクライナに侵攻して以来、ロシア=独裁的非人道国、ウクライナ=民主的人道国という構図が、疑いのないものとして拡散してきた。しかし、ウクライナ侵攻が起こるまで、世界のメディアは必ずしもウクライナおよびゼレンスキー政権を、民主主義の象徴として報道してきたわけではなかった。全面侵攻に踏み切ったのはロシアのプーチン大統領に他ならないが、ゼレンスキー政権は多くの問題を抱えていた。このシリーズでは、ゼレンスキー政権の内側を覗くことで、いまの世界情勢を見直してみたい。


2019年4月21日、ウォロディミル・ゼレンスキーは第6代ウクライナ大統領に当選した。すでに1回目の投票でゼレンスキーの優位は明らかだったが、決選投票で73%を超える支持を得るとは誰も予想しなかった。ゼレンスキーの選挙陣営でも、実は、ここまでの勝利は考えていなかった。テレビで人気のあるコメディアンで、ディレクターでもある小柄な人物は、さまざまな番組で高い視聴率を実現してきたが、その視聴率が大統領支持率に転化するのは、動乱に慣れたウクライナ人にも意外なことだったのだ。

ゼレンスキーが大統領選挙に出馬することを表明したのは、2018年の大晦日から翌年の正月にかけて、テレビ局「1+1TV]でのショウ番組だった。当時の大統領はペトロ・ポロシェンコで、本来は彼が国民に新年の挨拶するのが番組の中心とされていた。ところが、まくり上げた白いシャツを着たゼレンスキーが割って入ってきて「こんばんは、皆さん」と最初はロシア語で、それからウクライナ語でしゃべりはじめた。

「私は空約束をしたくないので、なかなか決心できなかった。しかし、いまや皆さんにしっかりと約束できます。ウクライナ国民の皆さん、私は大統領選挙に立候補します。それは、いますぐにやります。私はいまや大統領候補になりました」(ゼルイー・ルーデンコ『ゼレンスキー:ある伝記』)


視聴者は最初、これはコメディアンであるゼレンスキーのアドリブかと思った。なぜなら、ゼレンスキーは同じテレビ局の人気番組だった『国民の僕』で、一高校教師が決心して大統領候補となり、みごと当選するドラマの主人公を演じていたからだ。しかし、そうではなかった。ゼレンスキーはすでに、このテレビ局のオーナーであるウクライナ・オリガルヒ(新興財閥)、イーホル・コロモイスキーとも、この大胆な出馬表明を含めて、話をつけていた。

このときから、ウクライナの大統領選は、本物の大統領候補となったゼレンスキーの独擅場となる。彼は急激に支持者を広げて、現職のポロシェンコや日本では美人政治家として知られるティモシェンコに大きな差をつけていった。2014年4月1日の第一回投票では、ポロシェンコ17.8%、ティモシェンコ14.2%に対してゼレンスキーは30.4%を獲得。そして決選投票となった4月41日には73.22%を得て、24.45%にとどまったポロシェンコを圧倒した。

ポロシェンコはゼレンスキーが「政治の素人」であることを強調し、最初はゼレンスキーが嫌がっていた討論会でも、素人であることを露呈させようとした。しかし、この戦略はゼレンスキーの当意即妙の応答の前に失敗する。ゼレンスキーはポロシェンコに言い放ったという。「わたしはあなたの対立候補などではない。わたしはあなたの裁判官なのだ」。このときゼレンスキーには強力なブレーンがついていて、討論会でのテクニックをアドバイスし、テレビなどでの質問に対しても、即座に耳元でささやいて、意地の悪い質問者に対しては逆ねじを食らわせたという。


このブレーンとはアンドリィ・ボーダンで、それまでも何人もの政治家のアドバイザーを務めてきた人物だった。リヴィウ大学のロースクール出身で、自分自身も政治家を志していたという。しかし根っからの政治アドバイザーで、コメディアンでテレビ・ディレクターのゼレンスキーを、少なくとも選挙の間、ボロを出させないことに見事に成功した。同年7月21日に行われた最高議会選挙でも、新党「国民の僕」はゼレンスキーの活躍で424議席中240議席を獲得し、圧倒的多数を占めることに成功している。

ところが、このボーダンが2020年2月11日に、ゼレンスキー大統領によって正式に解雇されてしまう。それ以前にも2人の間の軋轢は噂されていた。ゼレンスキーはボーダンが「まるで副大統領のように振る舞い」、自分の管轄外の事項にも口を出すことに不満を持つようになっていたという。これは政治家とアドバイザーとの蜜月の後にはよくあることで、珍しいことではない。しかし、このころすでにゼレンスキーが目指そうとしている政治は、ボーダンが考えていたものと乖離していたことも確かだった。

ゼレンスキーは大統領に出馬したころには、2014年のロシアとの間に生まれたミンスク合意Ⅱについては不満でも、摩擦を加速することなく、平和を維持する「プラットホーム」の提案を国民に対しても行っていた。それがウクライナ東部と南部において、圧倒的な支持を受けた大きな理由だった。しかし、ボーダンとの亀裂が明らかになったころには、ロシアとの軋轢を回避する政策はどこかにいってしまっていた。


ボーダンがゼレンスキーのもとから去って後に投稿したフェイスブックの文章には、次のような文章が見える。「私は金採掘人ではなく、ただの夢想者にすぎない。私は君が我々の夢だった幸福で破綻のない国を、自分自身や取り巻きだけが心地よいバスタブと取り換えたことを残念に思う」と書いている。もちろん、こうした表現は、決裂した政治アドバイザーがいかにも言いそうなことだ。

しかし、前出のルーデンコは次のように指摘している。「権力はボーダンだけを変えたのではない。ゼレンスキーをも変えたのだ。彼は国家の支配者となり政治的な経験も積んだ。つまり、ゼレンスキーは別の人間になったのである」。その変貌した先にあったものは、いったい何なのか。そして、「夢想者」から離れて、いったい誰と組んだのか。その点をもっと詳しく見てみたい。(つづく)

 

●こちらもぜひご覧ください

hatsugentoday.hatenablog.com

hatsugentoday.hatenablog.com

hatsugentoday.hatenablog.com

hatsugentoday.hatenablog.com

hatsugentoday.hatenablog.com