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東谷暁による「事件」に対する解釈論

すでにトラス首相は崖っぷちに立っている;その言動と内政・外交を分析する

英国の新しい首相となったリズ・トラスについての報道は、すでに世界中で膨大な量に達している。それは国内の経済政策やウクライナに対する支援から、これまでマスコミをにぎわせてきたスキャンダルまで、ざっと目を通すだけでも何日も、いや何十日もかかるだろう。しかも、次々と新しいニュースが生まれている。ここではいくつかの点に限って、報道を元に触れておくだけにしたい。


何といっても驚いたのはザ・タイムズ9月5日付がA4判でプリントすると40枚を超えるほどの「伝記」を、首相就任が確実になった時点で一気掲載したことだ。こういうのは老大物が死去したときにはありうるが、現役の政治家の首相就任ではちょっと珍しいのではないだろうか。予想できるように、ここにはトラスの幼児期から保守政治家となるまでのエピソード、政治家になってからの不倫スキャンダルにまつわる揉め事、さらに、陣笠政治家となってからの異常な目立ちたがりぶりが、ほとんど日本の週刊誌的なタッチで、ぎっしりと紹介されている。

もちろん、こんなことは前もって準備していなければ不可能で、しかも、そうするに値する(読者は喜んで読む)ことを高い確度で予想していたからだろう。ともかく、この女性の半生というのは、週刊誌的ネタとして「松」の「上」に値するのだ。父親はケンブリッジ大学を出て数学者としてリーズ大学教授となり、母親は一時ナースをしていたが教師となり、歴史の著作もある社会運動家でもある。予想できるように、この夫婦はバリバリの進歩的左派で、娘のリズも幼いときから核軍縮運動サッチャー政権打倒デモに参加していた。幼いトラスは大声で「マギー!辞めろ」と叫んでいたという。

最初の支持率が低すぎることが何を意味しているか


オックスフォード大学で哲学・政治・経済学という英国エリートコース3点盛りの専攻をして、当時は英国自由民主党に入り、キャンパスで「英国王室廃止!」を叫んでいたという。ところが、何があったか分からないが、大学を卒業すると保守党に入党し、石油会社や通信会社で働き、ロンドン大学を出た会計士と結婚したころから、熱心に政治活動に入れ込むようになる。2001年には、サウス・ウェスト・ノーフォークから下院に立候補して当選した。母親は娘の「転向」を認めたが、父親はいまも「娘は保守党にスパイとしてもぐりこんだ」という幻想に浸っているという。そのうち、保守党が崩壊するほどの秘密を暴露するというのだ。

自分の担当ではない案件にも、カメラマンを連れて無理やりかかわるほどの積極性が功を奏して、新進保守政治家として注目される。2004年、政界についてアドバイスしてくれた先輩下院議員のマーク・フィールドとダブル不倫関係となり、それは2006年まで続いたとされる。さすがに保守党内でも問題になり、選挙のさいトラスの公認を取り消す話にまで発展したが、党幹部の覚えがよかったせいか、取り消しにはならなかった。フィールドのほうは離婚にいたったが、トラスのほうは2人の子供がいたお陰か、夫が寛容な人物だったのか、「夫婦のままにとどまった」という。


その後の出世は公のリストを見ても分かる。農業大臣、法務大臣、通商大臣、そして外務大臣のときにウクライナ問題を巡り、ロシアのラブロフ外相と激しい交渉をして世界に注目された(ということになっている)。しかし、このとき老練なラブロフに誘導的に失言をさせられてしまい窮地に陥った(直後に英外務省がトラス外相の発言について「訂正」をしている)。ともかく、頭がよくて積極的で普段からタカ派的発言を繰り出すのだが、これまでも準備が不十分で見当違いのことを言って失笑を買うことは多かった。それが国際政治の「晴れ舞台」で露呈してしまったとの指摘もある。

言動や性格のエピソードだけでも山のようにあるが、このくらいにして、トラス新首相の政治方針を2つだけ見てみよう。ひとつが内政、もうひとつが外政ということにする。まず、内政だが、米国経済誌ウォールストリートのマックス・コルチェスター記者は9月「リズ・トラス。次の英国首相に」という速報記事で、彼女のことを「リバタリアン」と表現した。こういうレッテル貼り報道は、たいがいは対象の本質を見逃すものだ。トラスがマーガレット・サッチャーを「尊敬する」と語り、野放図な政府支出をやめるというと言っているのは本当だとしても、いまの英国の状況からしてそんなことができるわけもない。事実、いまトラスが構想しているのは財政支出の加増である。


英国ザ・テレグラフの硬派記者ロス・クラークは、組閣について9月6日付「これは長期的に見れば最も保守的な内閣だ」との記事を寄稿している。もちろん、メンバーはサッチャー的な意味で最もコンサバティブなのだが、サッチャーが断行した国営企業の民営化とかウォール街の徹底的な改革とか社会福祉費の削減とか、そんなことがいまの状況で英国民の支持を得られるわけがない。たとえばエネルギー問題にしても、乗り切るには財政支出が必要だ。ただし、「それは我らの新しい首相が、とてつもなくプラグマティックであることを示すことになるだろう」。つまり、言ってきたことと、することが乖離するということだ。

おそらく、このトラスの「プラグマティズム」が十分に発揮されたのは、英国のEU離脱つまりブレグジットをめぐってのものだった。問題が出てきたとき、トラスは間違いなく離脱反対つまり残留派だった。しかし、次第に離脱派が勢いを増していくと、「大学時代の自由主義に基づく市場主義を語りだし」(前出ザ・タイムズ)、ジョンソン前首相が政争に勝つ頃には、離脱派の代表的存在となっていた。こだわらないといえばそうだが、思想というものがあるとすれば、この問題などはかなり深いところに関わっていたはずなのだが、彼女の場合はどうもそうではないのだ。

fp.comより

 

外政についてもジョンソン前首相を引き継ぐと言っているが、ジョンソンはヨーロッパのなかでは飛びぬけてウクライナへの支援を強調した政治家であり、それをそのまま真似るのは難しいだろうと、いまから懐疑的な見方が出ている。ジョンソンが自らキーウを訪れてゼレンスキーと抱き合い、ウクライナ国民を激励したことで、ウクライナ国民がどれほど心強く思ったかしれない。いまや黒海港湾都市オデーサの通りのひとつには「ジョンソン通り」との名前がついているほどなのだ。

ザ・テレグラフ9月5日付にジョー・バーンズが「いかにすればリズ・トラスはウクライナの『鉄の女』になるか」との記事を寄せているが、先ほど触れたロシアのラブロフ外相との会談について、したたかな老外交官に手玉にとられた事件に触れて、「ラブロフにはめられた」と指摘している。しかし、これから自分自身が中心になって、この手の外交タヌキたちと外交を展開していくには、経験があまりにもないことは確かである。「かのサッチャー男爵夫人のように、トラスは世界の巨大なプレーヤーとして振舞いたいのだろう。しかし、憧れはともかく、トラスは就任してすぐにも、自らの脆弱さを思い知らされることになるだろう」。


サッチャーの場合でも、大胆な外交や内政が、最初から思い通りにいったのではなかった。打ち出した「リバタリアン」(正確にいえばマネタリズム)の経済政策は英国の経済政策をさらに弱化した。EUへの加盟問題でも反対する彼女は「時代遅れ」とバカにされた。しかし、アルゼンチンが迂闊にもフォークランドに攻め込んでくれたことが、すべて好転するきっかけとなった。このとき即座に空母を差し向け、あっという間にアルゼンチン軍を制圧して「鉄の女」を証明した。また、北海油田の思わぬ発見は、低迷していた英経済をじわじわと海底から押し上げてくれた。これがリバタリアン政策のショックを緩和したのである。

しかし、偶然のフォーチュン(幸運)は真似ができないことなど、マキャベリに聞かなくてもわかる。トラスが「鉄の女」として評価されるには、サッチャー以上の幸運に恵まれねばならないだろう。瞬発力と積極性と忘却力でトラスが勝利するには、まず、ロシアが突然ウクライナから何もせずに撤退し、エネルギー問題も物価問題も解決し、そして外交や軍事も、素人同然で対応できる条件が整う必要がある。それはまさに奇跡に近いだろう。そして彼女のプラグマティズムは、たしかに、次々と生まれる課題を「乗り切る」ためには、政治家としての美質であるかもしれない。しかし、その美質は内輪の世界から外界にさらされた場合、往々にして国民に失望を生み出し、世界に対しての信頼を損なうものに転じる。

 

●続編です。こちらもご覧ください

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