催眠術が復活している。とはいっても、悩める女性から催眠術によって、人には話せない秘密を聞き出して心の苦しみを取り去るとか、集団に暗示をかけて巨大な大衆運動を巻き起こすというような話ではない。医学の治療に部分的にもちいて、これまでより痛みを和らげるとか、そのことで医療費を節約するとかの、実に堅実な使い方が広がっているというのである。もちろん、賛成派は広がっているとはいえ、多くの問題があり反対する医師も多い。
英経済誌ジ・エコノミスト12月28日付に「なぜ一部の医師たちは催眠術を再評価しているのか」が掲載されている。医療に催眠術を使うことが、最近、増えており、ユーチューブでも睡眠導入のための動画へのアクセスが急激に増えているというのだ。この種の動画は「ろうそく、渦巻き模様、ゆっくりしたナレーション」などによって「深い眠りにつく前に心を整理する」効果があるとされ、催眠術アプリ「レベリ」はこの1年で21万4000人が購入、2020年からの合計では65万人のユーザーを獲得しているという。
このアプリを考案したのはディビッド・シュピーゲル博士だが、彼はれっきとしたスタンフォード大学の精神科医であり、「多くの医師が疑似科学だとみなしている催眠術が不当に中傷されていると嘆いている」。しかし、こうした医師はいまは少数派だがいまや増えつつある研究者の一人だという。彼の仲間たちは、催眠術が脳に与える影響を膨大な臨床試験からデータを集めつつ、実際に応用を試みてきた。
彼らの研究と検証は、手術中の痛みの緩和や癌治療の副作用の低下に始まり、不安症や過敏性腸症候群、鬱病の治療にもおよんでいる。シュピーゲル博士とスタンフォード医療センターのジェシー・マルコビッツ博士は共著で「催眠術:これまで処方されたなかで最も効果的な治療法」と題された論文を発表しており、マルコビッツ博士は「催眠術が薬であったなら、標準的な治療法として確立していただろう」と語っている。
もちろん、催眠術の医療への応用にたいして懐疑派は多い。彼らが憂慮する理由は、ひとことでいえば「効いたとされた場合にも、そのメカニズムが解明されていない」からだという。「つまり、患者に暗示を与えると、それがどのようにして有益な効果が得られるのか」という仕組みが、まだまだ分からないのである。それが分からなければ、そう簡単に「効くから使おう」という気にはなれないだろう。
そこで、推進派がいま行っていることのひとつは、催眠術をかけられた人の頭の中で何が起こっているのか解明するため、脳画像化技術を使うことだ。たとえば、カナダのケベック大学の神経学者マシュー・ランドリーは、催眠術をかけられた人が脳内の中枢実行ネットワーク(CEN)の活動が活発になることを指摘している。CENは注意力と集中力の調節に関与する脳回路の集合体とされており、シュピーゲル博士やマルコビッツ博士は、こうした研究が大いに示唆に富むものだとして研究を継続している。
実際に効果が生まれている例を、検証し探求する研究者たちも多くなっている。たとえば、ウォーウェル博士はこれまで治療が難しいとされた重症の過敏性腸症候群について、患者1000人のうち67%が、催眠療法によって腹痛の3割以上緩和されたとの報告を行っている。また、ベルギーの高等保険評議会は、鬱病や不安障害にかんして催眠療法が治療を効果的にすることを認めた。さらに、フランスの臨床実験では、心臓手術に応用されて好結果が得られたとの報告がある。
そのいっぽうで、禁煙や不眠症における催眠術の使用にかんする研究は、いまのところそれほどしっかりした業績をあげていないようだ。これらの分野で証拠を集めるには、催眠術はいかがわしいとの評判にもっと考慮する必要があるとの指摘もある。「催眠術の応用支持者によれば、大きな問題は催眠術がほとんど規制されていないことだという。専門的な医学試験に合格せずに医師を名乗ることは違法だが、ほとんどの国では自分が催眠術師を名乗ることができる。それがペテン師やいんちき商売を許す土壌となっている」。
もうひとつ大きな障害は、催眠術が医療に応用されたときに、その支払いや報酬はどうなるのかという問題である。ニューヨークにあるマウントサイナイ病院のガイ・モンゴメリー医師は、2007年、乳癌の切除手術に催眠術をもちいると、手術時間を短縮することができ、鎮静剤や鎮痛剤の量も減らせ、さらに副作用が軽減されると発表した。その方法を続けて20年近くたったが、それで金額的にいくら節約できたかというと、失望せざるを得ないと本人が述べている。「医療品と違って、催眠術料が得られるわけではないからね」。
私の父は公務員だったが、1960年代、日本に催眠術ブームが起こったころ、本を読み、講習を受けて、免状のようなものをもらった。もちろん、公的なものではなかったが、何かの集まりで披露したところ、評判になって催眠術を施してもらいにやってくる人が出てきた。たとえば、オネショの癖がなおらないとか、睡眠が浅いとかの悩みを抱えた人たちだった。父は効くかどうかは分からないからといって、何のお礼ももらわずに催眠術をほどこしたが、そのうち何件かは効いたことになって、菓子折りが届いたこともあった。
しかし、催眠術ブームでペテン師やいんちきが多くなるにつれ、催眠術をかけてもらいにくる人は、ほとんどいなくなった。父もその成果については疑問をもったのか、積極的でなくなった。いま考えればかえってよかったと思うが、催眠術にはいまも多くのいかがわしい噂が付きまとうし、効果についても分からないところが多い。精神分析の始祖であるフロイトは、初期には催眠術をかけて患者から「本当の話」を聞き出せたと思っていたが、やがてその話が患者の作り話だったことに気が付き、催眠術による聞き取りは中止したという歴史的経緯もある。人は催眠状態でも嘘をつくのである。
ジ・エコノミストの記事には、そういう話は出てこないが、まずは催眠術師の資格というものが成立するかを考えなくてはならないだろう。これはかなり難しい。看板に「公認催眠術師」と掲げる審査をするにしても、インチキな看板はいくらでも掲げられる。医療のように高度な知識や技量はなくても、催眠術師は営業可能である点が大きな障害となるだろう。
もちろん医師ですら病院で手伝いをしていた程度でも、設備がある程度あると患者を騙すことができるが、しかし、そのハードルの高さが違う。とはいえ、なぜ催眠術がかかるのかの研究や、催眠中にはなぜ痛みが緩和されるかの研究は、ぜひ続けてもらいたいものだ。それは心と肉体との関係という、哲学や医学が延々と探求していまも完全には解明されていない、人間存在の根本にかかわる、興味深い分野の探求だからである。