トランプによる政治および経済の急激な変更を何と呼ぶべきなのか。すくなくとも、本来のあるべき姿への回帰という意味でのリボルーションではないだろう。では、それは共産革命のような、まったく新しい統治および計画経済への移行だろうか。もちろん、そうではない。それはトランプとその仲間たちの幻想に向かっての不毛な破壊行為であり、さっぱり新しくもなければ、本来的アメリカへの回帰でもまったくない。

スティーヴン・ウォルトが米外交誌フォーリン・ポリシー3月17日付に「トランプは少しも革命的ではない」を寄稿している。トランプの政治および経済を、ただの破壊だと糾弾するもので、これまでのトランプ論の延長線上にあるが、ちょっとしたネジレあるいは微妙な概念上の問題があって、きわめて興味深い、あるいは混乱したものになっている。
ウォルトは「革命」の定義として、自分の30年前の著作から引用している。「革命とは既存の国家がその社会のメンバーによって破壊され、その後に新しい政治秩序が創出されることである」というものなのだが、この定義にすでにかなりの問題があることは否定できない。したがって、この定義によってトランプ政権を見れば、革命に相当するものになってもおかしくない。もちろん、ウォルトはトランプの政治を革命とは呼ぶことは拒否する。

そもそも、30年前とはいえウォルトの革命の定義には、社会的現象を超えたいかなる価値観も含まれていない。そこにあるのは唯一「新しい」のかどうかということであり、何のための革命であるのかという目的についての視点、また、その革命が国民の生活にとってどうだったかというような結果についての判断は含まれていないのである。
したがって、アメリカの独立もフランス革命もロシア革命もホメイニ革命も、この定義からすれば革命と呼べることになってしまう。ウォルトが「トランプ主義の最終的な影響はまだ分からないが、一見すると彼と彼の仲間たちの願望はその定義に当てはまるように見える」と述べているのは、当然なのである。そしてまた、このトランプ主義が成功しそうにないというだけで、革命ではないと論じているのも、この定義が「新しい」以外の判断を持たないことから来ている。そして、次のように述べることは間違いではないが、あまり適切なことを言っているとは思えない。

「これはよいニュースだが、トランプ主義はブルボン王朝、ロマノフ朝、パフラビ朝を倒したような大衆運動ではなく、トランプはそのような革命指導者ではないということだ。……また、トランプ主義が広範囲に伝播する可能性も低い。……トランプは根本的に革命モデルを発明したのではなく、ハンガリーのオルバーンやトルコのエルドアンなどによって実現された民主主義の後退と私利私欲のたくらみに従っているだけだ」
これは当然のこととも思えるが、ウォルトはアメリカ人政治学者なのであって、新しいこと、それがこれまでにないことをもたらすこと、そしてそれがいい結果を出すことが、本来的な革命という呼び名に値するという価値観を前提としてしまっている。アメリカ人的な革命観はもともとロックの『政府二論』で展開した説をトマス・ペインが敷衍した議論に従っているといわれ、その政府が国民の福祉のための義務をはたさず、さらには国民から収奪するようになったら、国民は政府を取り換える権利を有するというものだ。

しかし、ロックとは異なるもうひとつの革命論がバークの『フランス革命の考察』にある。その思想に触発されたハンナ・アーレントが『革命論』で考察したものでは、もう少し別の見方ができる。革命とはリボルーション(回帰)であって、歴史のなかでつちかわれた価値や権利に立ち返るものであり、バークがアメリカ独立革命を支持したのも、また、フランス革命を逆に批判したのも、それまでの歴史的かつ伝統的な価値と権利への回帰であるか否かで判断したからだということになる。ウォルトが次のように書いている部分は、トランプへの鋭い非難にはなってはいるが、依然として革命の概念を整理しきれていないことを示している。
「トランプが望んでいるのは、70年間の経済成長を支えた管理された自由貿易ではなく、1世紀前にウィリアム・マッキンレー大統領が課したような輸入税(関税)である。人種や性別の平等、少数派への寛容ではなく、白人至上主義と伝統的な性別の役割への回帰だ。国際法やワシントンが主導する協力的な多国間機関に導かれた持続的な世界秩序ではなく、それに関与しないことである。規範に制約された大国間の競争ではなく、1世紀前と同じく、大国が何でも手に入れられるようにしたいのだ」

ここらへんには賛成できる点もないわけではないが、アメリカのリベラルの価値観に基づいたものである以上に、いまのまだ反省の足りない米民主党系のイデオロギーが濃厚だといえる。同意しやすいのは、トランプとお仲間たちへの批判である。「アメリカはこのような国家運営に反対する革命のなかで建国され、時代をへて宣言された理想に近づいてきた。独立250周年を目前に控えた来年、私たちが祝うのが、その文書に記された革命的理念ではなく、その終焉であるとしたら、それはまさに悲劇的といえよう」。まさにいまやアメリカは悲劇的になっているのだが、ロックの進歩的伝統の中にいるウォルトは、まだそれを心のどこかでは信じられないでいるのだ。
バーク流の保守主義に従えば、日本はこのような悲劇から簡単に逃れられるなどという気はない。ある人が『フランス革命の考察』からの引用だとして「保守するための改革(リフォーム・トゥ・コンサーブ)」と繰り返し語った。その意味するところは、日本の伝統や歴史で培ったものを守るための改革は許されるし必要なこともあるということだった。ところが、日本の自称保守派政治家たちは「保守」と「改革は許される」というところだけを切り取って、自分たちは保守派なのだから、いくらでも改革していいのだと解釈するようになった。さらにはその改革がアメリカからの要求であっても、保守派ならば受け入れるのが当然という構えになってしまったのである。
そもそも、残念なことにこのバーク引用文自体が異なっていた。バークがいったのは「保持するための革命(リボルーション・トゥ・プリザーブ)」だった。はっきりと、革命という激しい言葉を用いて、伝統や歴史によって培われたものは激しく保持することが前提だと言い切っていたのである。言い換えをした人物は、改革という政治家たちが好きな言葉を使えば、彼らにも浸透度が高いと思ったのかもしれない。しかし、薄められた言葉によって浸透したのちに実際に生まれたのは、野放図な改革への全面的な傾斜だった。これもいまだに続く悲劇のひとつである。
【追加】革命をどう考えるかという問題は、もちろん簡単ではない。ずいぶん前になるが、左派の革命と右派のクーデターというような、粗雑な分類もあった。この点については、フランスの政治学者モーリス・デュベルジェが、体制そのものを変えるのが革命であり、政体のみの変更を企てるのがクーデターだと分類したことに起因していたかもしれない。これは左派の共産主義による革命のみが、資本主義体制そのものを変えるという前提で分類していたわけで、たとえばドイツのナチスによる政権奪取は、資本主義との癒着はそのままだから、まがい物の革命だという評価になるわけである。
しかし、たとえば英国のピューリタン革命は王政を廃絶したが、資本主義を廃絶したわけではないので本当の革命ではなく、また、アメリカ独立革命も資本主義を打倒したわけではないので、革命などとは呼べないことになる。いずれも、せいぜいブルジョア革命であって、社会主義革命あるいは共産主義革命こそが、人民に本当の解放をもたらすにいたると言い張ることができた。
しかし、社会主義革命や共産主義革命が、本当に人民に福祉の増大をもたらしたかといえば、これはかなり微妙なものとなる。ロシアのように農民が農奴的な状態だった国での社会主義革命ならば、ある程度まで(その前が悲惨すぎたので)人民の生活は向上したかもしれないが、そのいっぽうで言論の自由や経済活動の拡大は極めて長時間にわたって停滞したわけで、場合によればむしろ大きく後退した、東欧のようなところもあったわけである。そして、それすら数十年の間には恐怖の抑圧体制へと転落していった。
上の本文のなかでの議論は、バーク・アーレント流のものを妥当としている。それはリボルーションの原義にこだわることで、歴史的な伝統回帰こそが革命なのだという見方を徹底したものだ。この場合、伝統というのが何なのかという議論が必要であり、また、伝統回帰とは何かというさらに哲学的な問題が横たわっている。回帰といっても過去のある一時期あるいは一政治形態をそのまま復活させるということはできないし、おそらくはグロテスクなものに終わる。それはただの復古であって、たいがいの場合はアナクロニズムに終わってしまう。この手の議論を平気でやっている自称保守派はくさるほどいる。
とりあえず言えることは、解釈学的な視点で歴史を見ることが伝統回帰を可能にすると構えて、過去・現在・未来における連続性が何によって可能になっているかという議論がその基底になければならない。たとえば政治や経済における価値観やルールに対する姿勢の場合でも、それは個人的には独自のセンスであると思いがちな美的趣味においてすら、実は、過去からの連続性のなかに、そのセンスが形成されてきたことを認識することができるのと同様である。そしてそれらは連続してはいても、不動のものではなくゆっくりと変わっていくものであることも、認めなくてはならない。
このように考えることで、トランプ主義が革命でもなければ、アメリカをプリザーブするものでもないことが明瞭に分かる。トランプの政治はこれまでのアメリカの歴史や伝統からして、まったく新奇なもので過去との性急な断絶を意味しており、もちろん回帰でもリボルトでもないがゆえに、ただでさえ歴史的感覚の希薄なアメリカ社会を、徹底的に破壊するものとなるのだ。そしてまた、かろうじて積み上げられた国際的慣習とルールを踏みにじることで、世界秩序をも崩壊へと導くことになるのである。