陰謀説がこの世を動かしてしまうのは、必ずしも「ポスト・トゥルース(真実なき時代)」が指摘されてからではない。たとえばワクチンについての非科学的な説が、接種しておけば死ななかった多くの人たちを殺す悲劇は、コロナワクチンについての陰謀説が流布するずっと前からあったことだ。しかし腹立たしいのは、陰謀説を流した人物は不思議に生き延びてしまい、その陰謀説ゆえに罰を受けるということは少ないことである。そしていま、誰よりも陰謀説を多く流してきた人物が、やはりその罰から逃れようとしている。

英経済誌ジ・エコノミスト7月18日付に掲載された「エプスタイン事件とドナルド・トランプ」は、単にエプスタインとトランプとの関係を問う記事ではない。幼児虐待で有罪となり獄中で自殺したエプスタインは、多くの富豪や権力者たちと知り合いで、そのなかにはトランプ大統領がいたが、エプスタインが起こした事件にはトランプも関わっていたのではないかとの説が、再度、信頼に足る話として浮上している。その当否は留保するとして、なぜ、この説が浮上してしまうのかを探究しているのである。
エプスタインは2019年に獄中で縊死したわけだが、その現場である独房の防犯カメラの録画が肝心の数分間が残っていないといわれている。それがこれまでの陰謀説の最大の根拠だったわけである。しかし、同誌によれば政府機関の官僚組織が、そんな隠蔽工作を白昼堂々と行なえる余地はほとんどなく、今回、エプスタイン他殺説が浮上した理由にはほとんどなりえない。

ジ・エコノミストより:右がエプスタイン
「この説が新しい生命を吹き込まれたのは、トランプ本人やバンスといった、最も影響力のあるMAGA(アメリカを再び医大にする)グループの有力者たちが、自分たちの仲間が所轄の司法省のトップに就けば、秘密ビデオを全部公開して、すべてを明らかにしてくれるだろうという期待が裏切られたからだ。MAGA仲間のパム・ボンディが司法長官になったのに公開されないのは、実は、トランプが共謀していたからなのだという説が生まれたわけである」
この新しい陰謀説のお陰で、驚くべき現象が起こっている。民主党の80%以上が、政府がエプスタインに関する証拠を隠蔽していると考えているのは、それほど驚くべき事態ではないかもしれない。多くの民主党員は、トランプ大統領は、実はロシアのスパイだという説を信じていたのだから。しかし、調査会社ユーガブがエコノミスト誌に依頼されて行った世論調査によると、共和党員の半数もいまや、この説に同意するようになっているというのには呆れざるをえない。陰謀説は新たな陰謀説を生み出し、それが延々と続くのだ。
そもそも、トランプという人物の最大の才能というのが、「まるでケーブルテレビをサーフィンしているかのように、人びとの話題を意のままに操ることができることだった」。たとえば、グリーンランドやパナマを奪取できるように思わせ、ジェローム・パウエルFRB議長も勝手にやめさせることができるように主張し、ウクライナのゼレンスキーに屈辱を味合わせたかと思うと名誉回復してやり、イーロン・マスクを褒めていたかと思うとめちゃめちゃに叩きのめしてしまう。実は多くの制約がある事項についても、トランプにはできないことなどないかのように思わせているのである。

自分が歓迎できないことが起きると、この人物は人びとに他の話題を取り上げさせるようにしてきたし、そのことで世論を操作することができ、自分への攻撃を巧みにかわすことができたわけである。そうすることで、実は、トランプはあらゆる立場にある人達を、彼らが互いに意見を異にしているにもかかわらず、自分の政治に巻き込んで、いわば「トランプ運動」の一翼に組み入れてきた。しかし、こんどのエプスタイン問題では、この絶妙な操作がうまくいっていないように思われる。
「トランプ運動には、自由貿易主義者と保護主義者、親ウクライナ派と親ロシア派、不法移民についても、大量国外追放を求める者たちと農場労働者を容認する人びとが同衾している。トランプはこれらの矛盾する立場を同時に取ることで、彼らを同時に満足させてきた。アメリカでこんなことができるのはトランプだけだろう。エプスタイン事件は、この恐るべき能力がトランプから剥がれ落ちたとき、いったい何が起こるかを暗示している。つまり、これはトランプのような能力を持たない者が、彼の運動を継続しようとした場合に、いったい何が起きてしまうかを予兆するものでもあるのだ」

マスクとの分裂騒ぎが、こんどはMAGAにおよぶかもしれない
以上が、ジ・エコノミストの記事の概要だが、これはトランプ政権だけに限られた現象ではなく、日本でも2つほど前の政権には似たような事態が見られた。日本は独立すべきだとぶち上げるいっぽう、どの指導者よりもアメリカに媚びた外交を展開し、そして恥ずかしい媚米的演説を米議会でやってみせた。コロナ禍がなければ、おそらくその矛盾は日本国民の前に明らかになったことだろう。しかし、こんな政権に集まっていた政治家たちは何の痛痒も感じなかっただろうし、また信者といわれた人たちも信仰はますます深くなっていたに違いない。いまの日本は混乱の極みだが、実は、その後始末をしているにすぎないのである。