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東谷暁による「事件」に対する解釈論

積極財政は無制約ではない;可能にする条件を提示するのは為政者の使命

世界的に最低賃金を引き上げることで低賃金の人たちを救い、政治的にも国民の多くの支持を得るという政策が、この10年の間に推進されてきた。では、それで雇用増加を推進して経済を活性化させてきたのだろうか。どうもそうではないようなのである。それは政治家たちの支持率をあげることには貢献してきたことだけは確かだが、低所得者の雇用増加を阻害してきたとの説もあるほどだ。そして、いま日本を含む世界的な「積極財政」も、似たようなマイナスの結果を生み出す危険性があることを考えておくべきなのである。


経済誌ジ・エコノミストの11月20日付は社説に「なぜ政府は最低賃金の引き上げをやめるべきなのか」を掲げて、いまも続く最低賃金の引き上げに懐疑を示している。そんな馬鹿なという人は多いかもしれない。やっぱりエコノミスト誌は新自由主義のクローバリストなんだと、軽蔑の笑いを浮かべる人もいるだろう。しかし、単純にいって最低賃金が上がりすぎれば、中小・零細企業には雇用そのものを抑えるところも多くなるだろう。

「11月26日に発表される予算案で、英国は所得の中央値の61%にあたる今の最低賃金を引き上げる見込みである。これは10年前の48%から上昇している。ドイツは2015年に最低賃金を導入して間もないが、2023年には50%を超えた。アメリカの連邦最低賃金は2009年以来変わっていないが、民主党が支配する州や都市では、最低賃金を連邦の基準よりずっと高く設定している。その平均的な実質最低賃金は1時間あたり約12ドル(約1890円)で、最高値は21ドル(約3300円)を超えている」

その国の最低賃金が所得の中央値の何%に相当するかの比較


もちろん、最低賃金を導入しても雇用は減らないと主張したのは、ちゃんとした経済学者たちだった。「それはある意味で、経済学者たちの勝利だったといえる」。そして過去20年間の経験がそれを裏付けてきたことも確かである。「ところが、各国政府がこの経済学的コンセンサスを擁護するいっぽうで、経済学者たちはしり込みし始めている。ますます多くの研究が、最低賃金が雇用統計には直接現れないかたちで、経済を歪めていることを示唆しているのだ」。それはいまや、左派の経済学者にも見られる現象となっている。

同誌は慎重な言い方で3つほど、この問題を考えるさいの注意事項を提示している。第1が、「最低賃金が雇用を失わせるのには時間がかかるということである」。2015年と2016年にシアトルで行われた最低賃金の大幅な引き上げは、既存の労働者がほとんど解雇されなかったにもかかわらず、労働市場の底辺層での採用が10%減速したことを示唆している」。これは、労働市場の上層や中層との格差が広がった現象として捉えることもできるが、現実と統計のタイムラグは相変わらず大きな問題だろう。

連邦で決めた最低賃金を大きく超える州や都市が多くなってきた


注意事項の第2は「最低賃金の引き上げは雇用そのものを奪うのではなく、むしろ雇用の質を低下させる」という点である。「最近の研究によれば、最低賃金の大幅な引き上げは、労働時間の短縮や不安定、職場での事故の増加、健康保険などの福利厚生の減退と関連していることが分かってきた」。

注意事項の第3は「制度導入の場合、早期の成功がそれ以降も続くと思い込む過信を生む」ことだという。これは常識的に納得できることで、以降もひんぱんにチェックすれば解消できるという人もいるだろうが、一度成立した制度というものは、過信だけでなく制度そのものの固定化あるいは慣性が生じることが多い。「適度な最低賃金は大企業の交渉力を牽制して、雇用を増やす可能性がある。しかし、政府が大幅な引き上げを行えば行うほど、雇用そのものが減少する危険性が生まれるのである」。

OECD諸国の雇用割合は急伸して80%をすでに超えた


こうした3つの現象は少しも意外なことではない。最近の信頼度の高い推計によれば、雇用主の市場支配力を考慮した平均的なアメリカ人の最低賃金は8ドル(約1260円)未満とされているという。先ほどの現実の数値と比べれば、ずいぶんと低いと感じられてしまう。また、最低賃金労働者の多くはいわゆる貧困層ではなく、高所得者と同居している場合が多いことも指摘されている。これは統計上の問題だが、収入のよい夫がいれば妻はアルバイトなみでもいいことになる。逆も真なり。さらに、ある論文によれば、企業がコスト高を相殺するために製品の値上げをした場合、最も苦しむのは貧困層であり、その苦しみは売上税よりも深刻だと指摘している。

「政治家はこうした影響に警戒すべきだろう。最低賃金の引き上げは必ずと言っていいほど支持を集めるが、有権者は物価高騰と住宅価格高騰にも憤慨している。雇用主のコスト上昇が消費者に転嫁され、政府が支援しようとしている労働者を含めて、生活がさらに困難になるという悪循環に陥る危険性もある」

フィナンシャル紙より:政府はますます大きくなっている


いまから20数年前になるが、ある雑誌に「いまは積極財政をすべき時期であり、大きな政府は歓迎すべきだ」との文章を書いたところ、当時、主流だった財政健全化と小さな政府を信じている編集長に書き換えを要求されたことがある。レポートの部分は残してやるから、お前の主張の部分は「常識」に従えというのである。当然、お断りして、没で結構ですと申し上げた。しかし、2008年を境にして急速に積極財政と大きな政府是認の傾向が高まり、いまやそちらのほうが「常識」となってしまった。なかには財政出動にはインフレ以外に制約がないという説もあるほどだ。

しかし、たいがいの場合、ある思想や理論が常識扱いになったときこそ、それを疑ってみる必要があるというのは、私の不遜な思い込みではなく、これまでの歴史が示していることである。積極財政についての私の考えは『2026年の論点100』(文藝春秋)に短い文章を寄せたので読んでもらえれば幸いだが、ひとことでいって、危機の際の積極財政は必要だが、しかし、それは多くの条件や制約付きだということである。

ジ・エコノミスト誌の最後の結論は、「低所得層を支援するには、最低賃金ほど魅力的には見えないが、貧困層に絞った税額控除にすべきで、成長促進税で賄えば経済への悪影響も軽減される」というものだ。これはクラシックな財政均衡論に近い考え方だが、いま積極財政を論じるさいには、多くの条件を勘案しない提言は無意味で、場合によれば単なるリスクの増加になることを、同誌のレポートは示唆してくれている。

もうひとつ、私の「経験」を述べておこう。これも20数年まえのはなしだが、中小企業への貸し渋り問題で知り合った新進気鋭の若い経営者が、「最低賃金をこれ以上釣り上げられると、私の会社の経営がかなりむずかしくなる」という。それは彼の経営していたユニークなタレで知られる串焼きチェーンが、多くの知的障害をもつひとたちの雇用を行っていたことと関係があった。仕事をすることができるのに、障害があるというだけで雇用されないひとたちを、やや低めの給与で雇っていたわけである。

細かいことは忘れたが、健常者との差はそれほどではなかったと思うが、そのレベルがかなり微妙なもので、彼の会社の急成長を支えていたようなのである。見ようによっては差別的だが、働けないよりはずっと彼らにプラスになるとの考え方によっていた。まだ、彼の会社は屋台経営から店舗経営に移行しつつあったころで、そうした雇用の方針が、それほど大きくは見えない給料差が、経営にかなり影響する条件を生み出していたのだろう。

そのときは、この問題をジャーナリズムで取り上げて欲しいということだったが、私は当時、金融機関の中小企業への貸し渋り問題を追及していたので、とても余裕がなかった。その後、彼のチェーン経営は急成長を続けたが、それが障害者の積極的雇用と関係があるのかどうかは分からない。残念なことに、彼の会社はあまりの急成長とその反動からくる粉飾決算によって数年前に破綻した。もちろん、これは経営者の才覚や状況にもよるだろうが、中小零細企業の経営にとっては、傍から見れば労働コストの「少しの差」が、経営には大きく影響するものなのだと知ったひとつの例として付け加えた。