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東谷暁による「事件」に対する解釈論

流言蜚語が「歴史」をつくる;いま情報には冷たく接してちょうどいい

新型コロナウイルスの蔓延は、WHOのディドロスですら「パンデミック」と認めざるを得ない状態となった。世界はその恐怖にパニックに陥って、株価も暴落を続けている。いま現在(2月13日午後12時40分)も、日経平均は17000円を挟んでもみ合いになっている。

 

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トランプ大統領ツイッターから


おそらくは、この株価を中心とする金融市場の混乱が景気後退をもたらすことは阻止できないだろう。いかなる断固たる決断を行う政府であっても、この奔流を支えきることはできない。しかし、政策の提示のしかた、政治指導者の振る舞いによって、被害を少しは小さくすることは可能だ。

 そのためには、よく言われることだが「恐怖が恐怖を生み出すことを断つこと」である。そしてその最大の条件は、起きている事態を冷静に見ること以外にありはしない。いや、むしろ冷酷になって、わかりやすい話やおもわせぶりな話は、いったん疑ってかかることが求められるかもしれない。

 株式市場の大暴落からパニックに陥り、景気後退へと転がり込み、そして長期の不況にはまり込むというパターンは、いうまでもなく1929年10月のニューヨーク証券取引所における「ブラック・サーズデイ」がモデルとなっている。あまりの株価の暴落によって自殺者があいつぎ、なかにはエンパイヤステートビルから飛び降りるものもいて、さらなる株価暴落へと向かったというのが、映画や小説でのお決まりの描写である。

 

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しかし、このイメージですら、当時のパニック心理が作り出した偽情報あるいは流言蜚語であったことは、いまやほぼ定説となっている。「そんなバカな、俺はちゃんとした本で読んだが、それは歴史的事実なのだ」という人もいるかもしれない。その認識そのものが、1929年のパニックの長い影に影響されたものなのである。

 むしろ、当時、ニューヨークで暮らしていた人たちのほうが冷静だった。もちろん、飛び降り自殺という「情報」を信じた人は多かったが、直後の新聞は次のように事態をたんたんと伝えている。

 「ほとんどインチキ、でまかせばかりのうわさが、ウォール街いっぱいに、やがては全国に流れとんでいった。自殺した投機家が11人という報道も流れた。呑気な勤め人がウォール街のビルのてっぺんに登って下をみると、大群衆がかれを見上げていた。とびおり自殺をするといううわさが広がっていたからだった。……こうしたうわさや情報は、たしかめたところ、すべてがうそであることがわかった……」(ニューヨーク・タイムズ1929年10月25日付 引用は中公新書から)

 この新聞の日付は、いわゆる「暗黒の木曜日」の翌日のものである。もちろん、これだって誤報だという可能性があるが、少しあとに克明な記録を残したフレデリック・アレンの『オンリー・イエスタディ』も、この新聞の内容を支持している。

 「それにしても恐ろしい日だった。その晩、七時になっても、仲買人たちの事務所の表示機は、まだかたかた鳴っていた。七時八分になってようやく、三時の立会場の最終取引の記録が終わった。出来高は、またしても新記録となった……午後になって、信じられないような噂が乱れとんだーー投機家が十一人自殺したとか、バッファローとシカゴの取引所が閉鎖されたとか、ニューヨークの取引所は、激昂した暴徒を防ぐために、軍隊が守っている、などである……」(アレン『オンリー・イエスタデイ』筑摩書房

 株価が暴落して全財産を失い、ニューヨークの高いビルから飛び降りるというイメージは、あまりにも受け入れやすいので、その後の映画や小説では定番の話となった。しかし、思い出していただきたいが、たとえば1990年の東証暴落で高いビルから飛び降りた人がいただろうか。また、2008年のリーマンショックで同じようなことをしたという話が、アメリカであっただろうか。

 もちろん、絶望した人は多かっただろう。そして、そうした人がひそかに自宅で自殺したということはあったかもしれない。しかし、その場合には原因が株価暴落だったのかどうかわからない。事実、ある本には自殺した歯医者がいて、それは株式暴落でかなりの損をした直後だったという話が載っているが、少なくとも投資家ではないのである。

 

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朝日新聞電子版より


この「歴史的物語」については、後々まで論争が絶えなかったが、ジョン・ケネス・ガルブレイスが『大恐慌』のなかで、統計データを使いながら分析している。

 「株式市場に近接しているために、自殺にたいする特別の傾向があると思われるかもしれないニューヨーク子の統計は、国全体の統計にたいしてほんのわずかの偏差を示すだけである。この自殺の神話はすっかり規定のものとなっている……当時は、高い窓から飛び降りるという古めかしい方法にしたがった人は、ほとんどいなかった」(ガルブレイス大恐慌』徳間書房)

 それでもなお、私たちは株価暴落の後には、欲望にかられた人間がその欲望ゆえに「罰せられた」という幻想にひたりたい。たとえば、ナタリーウッド主演の映画『草原の輝き』に出てくるボーイフレンドの強欲な父親は株価暴落で自殺し、ウィンスレット主演の『タイタニック』でも欲望丸出しの婚約者は株で全財産をすって自殺するのである。

 しかし、精力的に株価を押し上げていったディーラーや、あこぎな手口で売買していた投機家たちは、株価が暴落したくらいで自殺なんかしないのだ。彼らは、次の相場を待って雌伏して、また株式市場が活気づけば再び時の人となっていく。あるいは、似たような人間がその場所に立つだけのことだ。

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 ニューヨーク証券取引所で自殺者が出たという神話がいかに根強いかは、最近、英国の首相となったボリス・ジョンソンチャーチル伝のなかでも、チャーチルがビルから飛び降りる自殺を目撃したと書いてあることからも推測できるだろう。しかし、当日、チャーチル証券取引所に視察にいったことは歴史だが、なかった事件を見ることはできなかったはずである。

 いかにもそれらしい話を「ナラティブ」というが、このナラティブについては私の「コモドンの空飛ぶ書斎」で連載してきた「今のバブルはいつ崩壊するか」を読んでいただきたい。バブルを生み出したのもナラティブだが、これからバブル崩壊後の不況を長引かせるのもナラティブである可能性がある。