今回の新型コロナウイルスに関する政治判断について、「新型なんだからエビデンス(根拠)なんかなくても当たり前」という言説がしばしば見られる。これは一見正しいように見えてまったく間違った妄言といってよい。
新しい事態や新奇な事象に対して行われる決断が、まったくエビデンスなしでもいいと認めてしまったら、これほど政治家にとって都合のよい話はない。最初から何をしても文句をいわれる筋合いなどないからだ。
しかし、政治家が公的に行う政策あるいは発言には根拠がなければならないし、また、本人が「これは根拠がないなあ」と思っている言動においても、「それでも何かを言わないと混乱が大きくなる」とか「このままでは支持を失うから何が言っておく必要がある」と思ったという意味で、ちゃんと「根拠」があるのだ。つまり、自分の都合だったという悪しき「根拠」があるわけである。
しかも、政治家や専門家と言われる人たちが何らかの公的な行動や発言を行うさいには、説明責任が当然のこととして付帯している。「これこれの理由によって」「このような政策を断行する」あるいは「これこれの証拠によって」「このような提言をしている」という形で語るのは、政治家あるいは専門家にとって絶対的な義務である。
おそらく、「新型なんだからエビデンスなんかない」と言いたがる人たちは、政治家がギリギリの決断を行う場合に、根拠や証拠がない場合にも、自分の責任でやらなくてはならないことがあるといいたいのだろう。しかし、この場合でも政治家には自分の政策を説明する義務があり、たとえ「高貴なる嘘」であっても、何らかの理屈をつけるのが公的判断には必要なのである。
もし、そうしたものがなくともいいということになれば、そもそも政策判断の評価を下すことができなくなる。証拠とかデータとかいうものがなくて、時間的にも間に合わないときでも、政治家は「わたしは可能な限り専門家からの意見を集め、また、データを収集したけれど、十分なものはそろったとはいえない。しかし、いま行うべき判断には勘も入っているが、それを含めて総合的に決断するのだ」と言わねばならない。
あるいは、専門家たちが公的な判断にかかわって発言するさいにも、「いままでの調査からでは、まだまだ十分なデータが得られず、高い確率でものをいうことはできないが、いくつかの仮説が立てられ、そのなかで私がいまの時点で依拠するのは、自分の研究者としての経験から、いちばん高い確率をもっていると思われる」といった表現は不可欠である。
経済問題などでよく引用される「専門家」の発言として、「バブルは崩壊してみて初めて、それがバブルだったと分かる」という元FRB議長グリーンスパンの言葉があるが、これがまったくの嘘であり自己弁護だったことは述べておいた〈今のバブルはいつ崩壊するか(2)はじけて初めてバブルと分かるという嘘〉。
このグリーンスパンの言葉を含めて、公的な地位を持つ人間の公的な言動には、日常生活における一般の人間とはレベルの異なる、高いハードルが課せられている。それが政治家や専門家と言われる人たちの義務であり資格なのだ。よく考えもせずに、粋がって危機に臨んだ偉人のような気分に浸るのはただの馬鹿だろう。
こうした意味で、新型コロナについて「エビデンスはありませんが」と言ってしまった専門家たちはやはりおかしいのであり、また、政治的決定であるのに「専門家には相談していません」とのたまった政治家は無責任きわまりないのである。
●このエビデンス論について、さらに述べていますので、ご覧ください。