HatsugenToday

東谷暁による「事件」に対する解釈論

安倍首相がマスクを配るそうだ;エプリル・フールかと思った

やれ、やれ、またしても「バラマキ」なのか。安倍晋三首相は「全世帯に布マスクを2枚配る」という。しかも、なんというケチなバラマキか。最初、スマホで見たとき「あ、エプリル・フールか」と思ったほどだ。そのためにかかる手間や費用そして時間を考えると、とても正気だと思えない。そんなことより、マスクの買い占め問題解決はどうなったんだ?

f:id:HatsugenToday:20200401232958p:plain

すでに、日本医師会は事実上の独自「医療危機的状況宣言」をしてしまった。もう、安倍政権の決断を待っていられないというわけだ。たとえ、政策的サポートがなくても、言うだけのことは言いたい、できることはやっておこうということだろう。専門家会議のメンバーですら、緊急事態宣言をすべきだと独自に発言した人もいた。率先して決断するのが政治家だとすれば、もう、いまの安倍政権は政治家集団ではないのだ。

 少し前に「新型コロナなんだからエビデンスなしで政治判断して何が悪い」という妄言について批判した。(「新型だからエビデンスはいらないという妄言;それなら何の責任もなくなる」)この投稿が影響力を持つとは思っていないが、あいかわらず「新型だからエビデンスなんかない」という発言が頻繁に見られるのは呆れてしまう。しかも、安倍首相のパニックを擁護する立場でないような人でも、そう信じているらしい。 

f:id:HatsugenToday:20200313140138j:plain

「新型なんだからエビデンスはあるわけがない」という論者のなかには、いまマスコミがポピュリズムを発揮して、お祭り騒ぎをやっているのは、とても我慢ならないという方もおられるようだ。そもそも、新型コロナみたいな事態はグローバリズムの弊害そのものであり、そのことでも批判したらどうだという調子なのである。

 お祭り騒ぎだというのは、そのとおりだろう。また、エピデミックがグローバリズムによって加速しているのも間違いない。しかし、もし、いまの新型コロナをめぐる事態を批判するなら、大衆社会論を安易に適用して論じるのでなく、少しは事態の本質を押さえてからにすべきではないだろうか。

 まず、ウイルスにおけるエピデミックあるいはパンデミックだが、荒っぽくいってしまえば、すべてのウィルス騒動は「新型」によるのであり「初めて」の事態といってよい。その点、エボラも鳥インフルエンザSARSも、すべてが新しい経験なのだ。同じウイルスであっても、同じコロナであっても、必ず新しい症状や新しい事態がある。

 ただし、そこには同じウイルス、同じコロナウイルスだという根っこがあるから、共通性もある。何らかの共通性があれば、これまでの経験というものが、多少とも有効になる。つまり、これまでの医学的経験および疫学的経験は完全にゼロではない。それどころか、そうした研究の成果だけが、いま新型コロナに立ち向かうための「資産」であり、おそらく何らかの成果を生み出していくのである。

 

f:id:HatsugenToday:20200401233310j:plain

さらに、エピデミックの場合にはその感染過程というのが、社会的条件に大きく左右される。「エピデミックは社会的条件なしには研究できない」というのが、エピデミック史の大御所の言葉である。つまり、社会的文脈がエピデミックという現象解明に不可欠だということであるなら、たとえ「新型」で「新奇」な事態でも、そこに歴史的経験が生きてくるということになる。「新型」という言葉がついているからといって、まったく何の文脈も経験もないと考えるからおかしくなるのである。

 もうひとつ加えておくと、いまの新型コロナのパンデミック(世界蔓延)は、たしかに、この数十年の「グローバリズム」の結果であるといってよいものだろう。しかし、パンデミックには、すくなくとも、もう2つの経路があるのだ。ひとつは「渡り鳥」などの、動物の移動による伝染である。

たとえば、前出の鳥インフルエンザは、渡り鳥が介在して世界に蔓延させるという側面が大きい。新型ウイルスの事件が動物から人間に感染して始まるものだから、越境するのが人間でなく動物でも広範囲に伝染するのを担うのである。

f:id:HatsugenToday:20200209172710j:plain

さらに、もうひとつはやはり人間だが、歴史上の「民族移動」と「帝国主義」もまた、パンデミックを生み出してきた。それらが古代から近代まで、繰り返し新しい伝染病を世界に拡散してきたことは明らかだ。単に、ビジネスマン、金融マン、労働移民を駆り立てている、現代のグローバリズムだけがパンデミックを生じさせたわけではない。実は、新型とか新奇であるどころか、人間の歴史そのものなのである。

 いま、私たちが直面している「新型コロナウイルス」による世界的パンデミックは、実は、疫学や感染症学においても、現れは「新し」くとも、根っこは「旧い」ものであり、また、パンデミックグローバリズムの関係について論じるなら、民族移動やインペリアリズムについても忘れるわけにはいかない。「新」という字を見ただけで、それがまったく新しい事態と思い込むことで、因果と責任について、何から何まで放り出すような思考停止に陥ることは、何としても回避しなければならない。