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東谷暁による「事件」に対する解釈論

岸田元外相が自民党総裁に!;直後に海外メディアが下した岸田評を読む

第100代日本国首相には、岸田文雄外務大臣が就任する。いまさら、自民党総裁選の長老支配の構造を指摘しても意味がないので、これからのことを考えてみよう。昨年、安倍元首相が放り出した政権を拾った菅首相が、直面せざるを得なかったコロナ禍は、まだ延々と継続している。しかも、この1年間に生まれてきた外交や経済の大きな問題も、これから岸田氏が背負っていかなくてはならないのだ。

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岸田氏が総裁選に勝利した直後に、海外のマスコミが掲載した岸田評を、ざっと見ておこう。まず、ワシントン・ポスト紙9月29日付が中心的に取り上げたのは、岸田氏の就任によって、日本の外交がどうなるかだった。同紙は「安全保障の観点、外交の観点からは、私たちは大きな転換を見ることにはならないだろうと思う」と述べたランド研究所のジェフリー・ホーナンのコメントをそのまま載せている。

経済政策について、広島県出身の岸田総裁が直面しているジレンマに切り込んでいるのは、ドイツのフランクフルター・アルゲマイネ紙同日付である。岸田氏はアベノミクスから脱却して「新しい資本主義」を目指すとしているが、エネルギー政策については、安倍政権の閣僚として原発の再開を支持してきた経緯がある。

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そこで同紙は、「岸田氏は再生可能エネルギーの増強を目指しているが、同時に、エネルギー供給を確保して、二酸化炭素ガス排出を低下させるため、環境にやさしく小型の原子力発電も検討せざるをえないのである」と指摘している。総裁候補のひとりだった高市早苗氏のように、なんのこだわりもなく真正面から小型原発プラントについて論じることができない、岸田氏の難しい立場を示唆しているようである。

フィナンシャル・タイムズ同日付は、岸田総裁の誕生が海外の投資家たちにどう映ったかをリポートしている。「日本国内の投資家たちは、いまや経済の再開と景気の刺激策に関心を移しているが、いま市場取引の3分の2を占める海外の投資家たちは、たぶん河野太郎のほうがよかったと思っている。証券ストラテジストのニコラス・スミスは『総裁選挙の結果を市場は歓迎しなかった。外国人は英語がしゃべれる政治家のほうがよかった』と語っている」。英語がぺらぺらならいいとも限らないが、投資家の目でみると、儲かるような政策はしてくれそうにないということだろう。

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辛辣なのは、やはり、皮肉屋の集まりである英経済誌ジ・エコノミストだろう。同誌電子版9月29日号での岸田評を集約すれば「アファブル、ダル、ドリンカー、ファジー」の4語に尽きている。岸田氏は愛想がいい(アファブル)な人物だが、退屈(ダル)な性格で、大酒飲み(ビッグ・ドリンカー)だと紹介。しかも、彼の先輩たちと同じで、自分の国に関するビジョンは、実に曖昧(ファジー)だというのである。

こうしてみると、日本国内同様に海外においても、岸田総裁に対して、それほどの期待を持っているとは思えないが、いま岸田総裁が直面している問題は、海外の報道機関が書いている以上に多様で大きなものになりつつある。外交においてはアメリカだけが問題ではない。いまや中国にどう対峙するかが、もっと難しい課題となっている。少し前に中国はTPPへの参加を正式に申請してきて、世界を巻き込んだ安全保障にからんだ外交問題となっている。

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経済問題もエネルギーだけではない、そもそも、コロナ禍によって再びデフレ基調に転落してしまっていて、それが「新しい資本主義」と唱えるだけで解決するとは思えない。数十兆円の財政支出もどこまで効き目があるか未知数である。アメリカも中国もバブル状態であるだけでなく、中国などはすでに不動産セクターから崩壊の兆しを見せている。アメリカも住宅市場や証券市場が崩壊の直前まできている。そのいっぽうで、コロナ禍脱出の経済政策がインフレや住宅バブルを生み出していて、これから世界経済のさらなる混乱は必至といえる。

こんなときに、アファブルでダルでドリンカーでファジーな政治家が首相に就任してもよいのだろうか。いや、もう就任することはほぼ決まっている。これほどの厳しい状況を前にして、首相の椅子から遁走した安倍や菅は、ほんとうはとんでもないシタタカモノたちなのかもしれない。もっとも、皮肉屋たちが常に正しいとは限らないし、痛飲することはやめたと岸田氏本人が言っているので、それが本当ならば、少なくともひとつ憂慮の種はなくなった、ということができそうである。