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東谷暁による「事件」に対する解釈論

岸田政権は来年5月までもつのか?;それよりいま考え直すべきことがある

いまや岸田文雄内閣は風前の灯となっている。少し前までは広島サミットの5月まで続くのか憂慮されたが、いまや来年の国会すらおぼつかないと言われ始めた。もちろん、岸田首相の支持率が下落していることが大きな理由だが、しかし、これもよく考えてみれば前政権と前々政権、とくに安倍政権の置き土産が、決定的だったのではないかと思えてくる。政治とカネもそうだし、旧統一教会問題などは安倍政権特有のものではないのか。


いわゆる保守系の人間は、好んでいまの岸田政権の弱さを揶揄し、ガバナビリティのなさを嗤っているが、コロナ禍対策を批判するなら安倍政権と菅政権での、不十分さを突かねばならない(個人的には、欧米に比べて死亡数対人口比が、いまも圧倒的に日本が少ないのであまり文句はない)。また、政治とカネなどはほとんど宿痾のようなものだが、しかし、旧統一教会となると、これはもう安倍政権の最大の汚点といってよい。となれば、岸田政権の脆弱さというのは、安倍長期政権の汚物の掃除ゆえといってもよいほどである。

 

そもそも、長期政権の後というのは最初から損な役回りで、小泉純一郎政権が長く続いた後、安倍が政権についたときにも、手を付けやすいものはあらかた済んでいて、安倍は「じゃあ、僕は何をすればいいんだ!」と叫んだと言われている。もちろん、この時点でも安倍は「憲法改正」という課題を持っていたのだが、総理大臣という複雑で重たい職をろくろく理解もしないまま、いきなりこの大テーマにとりかかろうとして、他の閣僚たちが呆れたという話も伝わっている。

いまの厳しい状況のなかで、岸田首相は「じゃあ、僕は何ができるというんだ」と言いたいかもしれない。いや、そのくらい今の状況は難しいといえる。しかし、ウクライナ戦争を終わらせるために国際政治に乗り出すとか、中国という困りものを抑えるとかのテーマは荷が重すぎて、その端緒すらもつかめないだろう。いまの岸田内閣呆然の図というのは、いわば必然的に生じる、長期政権のあとの政治の空白時代と考えてあきらめるしかない。

 

とはいえ、自民党についていえば、こちらはいくらでも課題が存在している。まず、いまだに「安倍派」とかいうものが存在していて、しかも、90人を超える構成員である政治家たちの足並みは揃わない。揃わないというよりも、小粒の県会議員みたいな口うるさい政治屋たちがばらばらにうごめいているだけで、何をしたいのか分からない。分かるのは安倍の悪口をいうと逆上することと、安倍の遺志と称して財政支出拡大を言いたがることだけである(安倍は政権の途中で財政拡大をやめてしまったというのに、首相をやめてからグチグチ言っていたことが、何で遺志なのか私には分からないけれど)。

このいわゆる安倍派という奇妙な存在が典型的に示しているように、いまの自民党は何をしたいのか、さっぱり分からない。それが実は何より大きな自民党の問題になっており、それが日本のいまの政治の低迷を生み出しているのだ。いや、そんなことはない、自民党はダメな野党などとは違って、ちゃんと政治をやっていると言う人がいるかもしれない。しかし、いまの自民党には、政権の維持と安倍の悪口を言わせないことと、あとは如何なる理屈なのかよくわからないままに、財政拡大はいくらやってもよいという説を信じ込んだ、奇妙な財政至上派しかいないのである。


これはあっさりいってしまえば、野党がダメだというより自民党がダメだということで、1990年代初めのころには、自民党みずからが野党を含めた新しい時代の政治の仕組みを考えようとしていた。つまり、冷戦以後の時代には、2大政党制に移っていくべきだという意見が多方面からあって、そのために、小選挙区制を中心とした選挙制度が必要だということだったのだ。ところが、この小選挙区制のダメなところだけはすべて実現したが(すでに述べたように政治家が小粒になり、政治資金が党首に握られてしまい、政治家に構想力および抗争力がなくなった)、いまだに冷戦後を踏まえた2大政党制が実現していないし、野党が自民党と対峙するなんてことは、昔の伝説あるいは幻想と化してしまっている。

 

自民党のどろんとした沼地のような停滞は、もちろん野党がどうしようもないからでもあるが、90年代にはあった「野党を育てて自らも成長する」という、雄々しい構想力がまったくないからでもある。90年代がすべてよかったなどとは言う気はないが、新しい時代の政治を自分たちが切り開くという気概だけは(かなり見当違いのもののあったけれど)あったことは間違いない。ところが、2度ほど非自民党政権が成立して、ちょっとばかり冷や飯を食っただけで、もう身も世もなく自民党は政権維持を自己目的化してしまったのである。

 

いやな人だなあと感じさせても、かつての自民党には人間的に面白い人が大勢いたと思う。だいたい政治家になろうという人には、通常の人間からして耐えられないクセがつきまとうものだが、それが何ともいえないクサヤのような魅力だというのが、政治家の人格というものなのである。ところが、いまや何だかセコくて演説もつまらないし、党首に媚びを売るために思ってもいないことを口にしたかと思うと、大衆受けを狙ってショーマンシップに傾斜する。多少は勉強をしていても誰かの受け売り(たいがいはアメリカ発の、しかも勘違いした翻案説のそのまた不完全コピーが多い)で、情けなくて投票場なんかに行く気にならない。

 

そこで思うのは、すぐには野党が育つのは難しいならば、まず、自民党の派閥が互いに抗争力をもってほしいということだ。いまのような、いわゆる安倍さん派みたいな状態になったら、よってたかって堂々と自派の草刈り場にすべきなのだ。いや、そもそも安倍派がまとまらなければ、内側から新しい旗を立てる政治家が、次々と出てくるのが当然ではないか。それが何だかお互いにモジモジして、体をくねくねひねって、目立ち始めた者に足払いをかけているようでは、本来の政治家とは呼べたモノではない。

 

かつて、1970年代から1980年代にかけて、日本がまだ経済成長を続けていたころ、さっぱり政権交代していない日本が、不思議なことに腐敗はあっても、ほどほどでいられるのは何故だろうという問いが世界的にあった。日本の学者たちがあれこれ考えて出したひとつの答えが、自民党の派閥が本来の政党の役割をはたして、構想力と抗争力と自浄力をもって競っているからだという説だった。これにはいろいろ問題があるけれど、ある一面を正そこそこ正しく描き出している。

いまも同じことをしろというわけではないが、ますます小粒集団になっていく野党に期待してもいまは無意味だから、とりあえずは自民党内で政治らしい政治、抗争らしい抗争ができるようにしてみたらどうだろうか。まずは、安倍派をめぐっては再編成あるいは分裂を起こさせて、今の自民党は将来的には複数の政党に成長していくことを考える。そうでもしないと、面白くて活力のある政治を日本が持つことは、永久に不可能だろう。