バッシャール・アサド大統領はロシアに亡命して、シリアは父親のハーフィズと合わせて50年ほど続いたアサド独裁から解放されたと報道されている。しかし、その解放を実現した中心勢力がハヤト・タハリール・アル・シャム(HTS)であることは、西側諸国を当惑させている。わかっていたことだが、残虐なアサド政権を崩壊させたのもまた、イスラム過激派勢力だったのだ。なかにはHTSのことを「アルカイダなみ」と指摘する者もいる。
問題の輪郭をはっきりさせるため、英経済誌フィナンシャル・タイムズ12月9日付に政治コラムニストのギデオン・ラックマンが投稿した「西側諸国はシリアに対する冷笑的な後悔に屈するべきではない」を紹介しながら、この複雑な事情をおさらいしてみよう。まず、亡命したアサド大統領という人物は、シリア国民を弾圧し、少数民族を虐殺するとんでもない独裁者ということになっていた。
しかし、シリアの地政学的位置から考えたばあい、この国には多くの民族が混在しており、しかも宗教的にも多くのセクトが存在し、いわば中東の勢力の十字路にあり、したがってイスラム過激派がモザイク状に分布している地域だった。そこにアサド一族が国家を作り上げ維持することは、最初から多くの困難が伴っていた。もちろん、世界には微妙な地政学的条件の国家は多くあり、それらがすべてアサド一族のような独裁的権力をつくりあげ、少数民族に対して毒ガスを使うような虐殺を行うわけではない。
こうした微妙な地政学的条件を持つ国家に対しては、さまざまな勢力が介入して自国の外交・軍事的な勢力拡大の拠点としてきた。なかでも大きかったのはロシアとイランがアサド政権を支持し、また、内戦が激しくなってからは軍事援助を行ってきた。もちろん、アメリカを始めとする西側はこうしたアサド政権と援助国に対抗するため、他の様々な勢力を背後から支援し、場合によれば直接軍事的な介入も辞さない姿勢を示してきた。こうした事情を前提として、いまの「解放」に直面したとき、どのような対応になったのか。
「そもそもHTSというのは、アメリカ、国連、その他の西側諸国によってテロ組織に分類されてきた勢力であり、この事実はいまや別の不安を生み出している。2014年にはシリアとイラクでISIS(イスラム・ステート)が台頭した記憶もまだ新しい」。したがって、ラックマンが次のように書くとき、いまの「解放」の報道に明るいトーンがなく、読者もシニックな気持ちになるのは無理ないのである。
ジ・エコノミストより
「口にはださないだろうが、アメリカとヨーロッパ諸国は、シリアでHTSが最強の勢力となってしまう新しい秩序の不確実性よりも、自分たちがよく知っている悪魔であるアサドのほうを好んでいたのは無理ないのである。あるヨーロッパの指導者などは『心を変えたイスラムの聖戦主義者などというのは、もう、最初っから矛盾しているとしか思えない』と発言している」
興味深いのは、すでにアサド政権がいくつもの反政府勢力によって危機に陥っていた先週ですらも、アラブ首長国連邦はアサド大統領への支持を表明していたことである。また、レバノンでヒズボラ同盟国を崩壊させ、アサド大統領をさらに苦境に追いやったネタニヤフ首相と親しい学者ヨラム・ハゾニーなどは、HTSを「ほとんどアルカイダ同然の怪物」と呼んで、いまの事態を憂慮している。そこには、HTSへの最大の支持者がトルコのエルドガン大統領だという現実も関係しているに違いない。にもかかわらす、ラックマンはシニックになるなというのである。
ジ・エコノミストより
「それでもなお、人道的、地政学的理由から、西側諸国の人間がアサド政権の崩壊を嘆くのは間違っているだろう。アサド政権は怖ろしい政治勢力が存在しているこの地域であるがゆえに、残忍な政権だったのかもしれない。しかし、2011年に内戦が始まって以来、シリアでは実に50万人以上が死亡しており、犠牲者の90%以上はシリア政府とその同盟国によって殺害されている。アサド政権の引き起こした内戦により、何百万人ものシリア人が国外に逃亡し、世界に難民危機を産み出した」
もちろん、この地域の現実がラックマンに見えていないのではない。しかし、彼はアサド政権が崩壊したことで、シリアからロシアとイランが後退していくことにひとつの意義を見出そうとしている。ウクライナで優勢になったプーチンのロシアは必ずしも世界で優勢になったわけではない。また、イランが代理戦争をしてきたヒズボラの勢力をほとんど失い、今度、シリアを失ったことは、この地域での勢力をほぼ無くしたことになると述べている。そして、ラックマンが希望をもとうとしているのが、HTSが言われているより「まとも」ではないかとの予想である。
「シリア国内ですでにHTSが制圧した地域で、彼らと接触した西側諸国のNGOの中には、HTSはよく組織化されており、プラグマティック(実際的)で、外の世界と交渉する準備と能力を備えていると認識している団体もある。この団体の構成員たちは、HTSが装いを新たにしたアルカイダであると考えることには注意を促している」
そして、ラックマンはいまのシリア地域に対する悲観主義が生まれた経緯を、2011年のシリア内戦に求めている。アサド政権に対抗した反政府勢力が蜂起したさいに、アサド政権が残忍な内戦へと転落していったことで、中東の権威主義的体制の崩壊への楽観主義が消え去ったというわけである。しかし、そこで生まれた冷笑主義は、今回のアサド亡命で反論されているのではないかというのがラックマンの考えのようだ。「それはアラブ首長国連邦がアサド政権を支持したように、政治分析上もまちがっていたのである」。
そうした分析的な視点から、ラックマンが次のようにいうとき、やはりこのコラムニストは天性の楽観主義者だと思わざるを得ない。「アサド政権崩壊後のシリアの将来について不安が広がるのは当然かもしれない。しかし、そうした人たちは単純な真実を見失いがちだ。他の残忍な政権と連携していた残忍な政権が崩壊したの良いことではないのか」。おやおや、今回はラックマンがときどき依拠する外交のリアリズムはあとかたもなくなっている。そもそも、NGOの人たちに偏見があるわけではないが、その種の人たちはしばしば支援対象を理想化しがちであることを忘れたのだろうか。
もっとも極端な政治のリアリズムを唱えたのは、現代ではキッシンジャーだったろう。彼が晩年近くに発表した『世界秩序』(これは「国際秩序」でないことに注意すべきだ)によれば、欧米型の民主主義型の国々が作り上げる秩序でなくとも、ともかく世界のそれぞれの地域に秩序を作り上げることが最重要なのである。それはたとえば中東に形成されたイスラム文化圏の秩序であろうと、東アジアに作られた中国中心の秩序であろうと、それが世界秩序を生み出す一部であれば、世界秩序という観点からは評価すべきだというのである。
もちろん、こうした秩序観はそこに生活している人たちの民主主義や福祉などは二の次になっているし、あまりにも秩序優先であるかもしれない。何のための秩序なのか、それは一般の人びとの平和な生活のためではないのか、という声が聞こえてきそうである。しかし、今回も、今回もである。中東の秩序を崩壊させてしまったのは、外面は民主主義的制度に見えるイスラエルであり、その背後で偽善的にふるまいながら結局はイスラエルを支持したバイデンの民主主義国家アメリカだった。
イスラエルはハマスへの報復について、初期は正当性があったかもしれない。しかし、それを超えてガザ住民を虐殺して事実上領土を略奪し、さらにレバノンに侵攻したのは、秩序維持という点からすればまったくの暴走だった。そしてアメリカは、別にキッシンジャーの説に従わなくとも、大国としての責任からイスラエルを抑止すべきだったのに、その役割を放棄したのである。ペシミズムに陥るべきではないというギデオンの議論の中には、こうした視点がまるでない。私はむしろ彼の議論に対して強いシニシズムを感じざるを得ない。