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東谷暁による「事件」に対する解釈論

コロナの死亡数は民度で決まる?;副総理、それならあなたが真っ先に感染ですよ

旅から帰ってきたら、麻生副総理が「コロナの死者数が低いのは、日本の民度のおかげ」だと発言して話題になっていた。いかにも麻生さんの言いそうなことだし、ネット上でも「日本人の秩序観や衛生感覚のたまもの」と述べている人は多い。しかし、そうだとすると、中国とか韓国も「民度」が高いことになるから、「冗談ではない」と憤激する人もいるのではないだろうか。

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 そもそも、この「民度」とは何なのだろうか。「日本人は民度が高い」とか「民度が高くないと民主主義は成り立たない」とかいうが、「じゃ、民度って何ですか」と聞くと、「秩序観じゃないですか」「清潔感かな」ということになって、実は循環論法になってしまう。

 ちょっと考えてみたのだが、この「民度」というのは、たぶん、明治維新ころの「シビライズド」の翻訳ではないかという気がする。海外での麻生発言の報道を見てみても、どうやらシビライズドらしいから、実は、日本の明治維新当時の使い方では「西洋化」のこと。今回の麻生さんの使い方は、この意味からすればまったく間違っていて、西洋諸国は感染率も死亡率も高いことが明らかである。

 感染率と致死率が低いのは東アジア諸国であって、19世紀に欧米に無理やりにシビライズドされてしまったか、あるいは植民地化されてしまった国だけが、感染率および致死率が高いということになってしまう。

 「いや、これはいまもBCG接種を続けている国が、コロナの感染率および致死率が低いのだ」という人もいるかもしれない。しかし、これはすでにイランやトルコという反証例があることから、根拠はゼロではないが妥当性は低い話だということが分かっている。しかも、イラクは両方とも低いが東アジアに位置するわけではない。

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rakuten.mobileより
 もうひとつ、「やっぱり、最初からマスクをかけていた国ではないか」という説もあって、英経済誌『ジ・エコノミスト』5月28日号が取り上げている。これは日本では「サージカルマスクならともかく、ふつうの不織布マスクでは、コロナウイルス感染は阻止できない」という専門家が多かったので、なんだか新鮮な気がする。

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 しかし、やっぱりこれは同誌によれば「利他主義」によると考えるべきで、自分が感染しないようにするという意味ではなく、たまたま自分が感染していたときに他人に飛沫を浴びせないようにするという配慮のたまものだという結論にいたっている。

 こういう議論は専門家たちもすでに述べていたことで、「なんだ、そんな話か」と思いがちだが、やっぱり重要なことだ。東京が再び感染者が増えているのは、この利他主義が薄れているせいかもしれない。それならば、緊急事態宣言を再び発して利他主義を喚起する必要があるが、他人への配慮というのは簡単に身につくものではない。

 ということは、利他主義というシビライズドされている生活態度をもつ文明国は、長い時間をかけて身につけた習慣によって、感染率や致死率が低いという可能性もあるということになる。つまり、他人を気遣う民度が高いと死亡率は低いという議論が成り立つかもしれない。ただし、それは少なくとも西洋諸国ではなさそうだ。また、強権によって「配慮」を強制したり、監視テクノロジーで政府が「配慮」したのは別の話である。

ちなみに、シビライズドとは「振る舞いの洗練度」と解釈されることもあるが、この解釈を適用すれば、麻生さんはまっさきに感染してもおかしくないはずである。