HatsugenToday

東谷暁による「事件」に対する解釈論

同調圧力ってそんなに悪いのか;なければ社会が動かないのでは?

コロナ禍に対応するなかで「同調圧力」や「空気」、つまり集団の有言無言による圧力に対する嫌悪が強まっている。他人の顔をうかがいながら暮らさなくてはならない、今の日本は息苦しい。それどころか、日本はファシズムのような恐るべき時代へと向かっているのではないか、心配だというわけである(この投稿は「集団圧力ってそんなに悪いのか」を改題・加筆したものです)。

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それはもっともだと思われる面もある。私自身が他の人に同調するのが下手で苦労してきたし、あまり空気が読めないので浮いてきたので、同調圧力や空気に配慮しなければならない社会は嫌だ、という気持ちが分からないでもない。

 しかし、そのいっぽうで、同調圧力とか空気の作用がまるでない社会というのは、どうなってしまうのだろうと考えることもしばしばである。同調圧力とか空気を批判する人の多くは、日本社会が同調圧力とか空気で動いている特殊な社会であると考え、その特殊なことがいけないという。では、そういうものがない社会というのが、はたしてこの世界にあるのだろうか。

 仮に、まったく他人に配慮しないでよい社会を想像してみよう。これはほとんど成立不可能であって、社会の成立自体が考えられない。そもそも、他人のことを配慮するから人間社会というものが生まれるのであり、そうでなければ人間は家族単位あるいは1人だけで浮遊するような、繁殖期だけ相手を見つけてあとはバラバラに生きる、孤独な生き物だったことだろう。

こうした社会を形成するのが、人為的な社会契約によってのことなのか、そもそも生得的にそうなのかはここでは措くとして、他人を配慮しながら生きているのが人間であることは間違いなさそうである。だとすれば、その他人への配慮が「同調圧力」とか「空気」とかいわれて嫌悪の対象になるのは、それが過剰な場合あるいは発動が頻繁すぎる場合だということになる。

 この同調圧力や空気がきわめて弱い場合、どのような社会になるだろうか。推論のプロセスをはしょってしまうと、それはきわめて小さく結びつきの脆弱な社会か、あるいは強権によって締め付ける権威主義的な社会のいずれかになる。こうした社会は現実に存在するわけで、いつまでも小集団程度の大きさしか形成できない狩猟採集民社会や、逆に、巨大なレベルまで成長しているが独裁的政治が横行する社会に見ることができる。

 日本社会の場合には、同調圧力あるいは空気をかなり多くの部分で利用して秩序を維持するタイプの社会として発達してきた。明示的なものだけでなく暗示的なもので成立する社会は、それだけ文明度が高いといったのは哲学者のホワイトヘッドだった。こうした見方を日本に応用すれば、日本は文明のかなり先端にあることになり、1980年代には経済的に成功したかに見える日本社会を、称賛する場合に引用されたりした。

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しかし、こうした暗示的な文明というものも、やはり欠点をもっている。たとえば、自分たちの社会がたまたま成功しても、それが何故なのか分からないという事態に陥る。1980年代の日本の経済的成功も自覚的に獲得されたものではないため、1990年代にバブル崩壊を機に低迷しても、それが何故なのかなかなか分からないままだった。実は、1980年代、山本七平という評論家が、いまの日本経済の成功は、その理由が自覚されていないので、いったんおかしくなると、回復させることが難しくなるだろうと予言していた。

 山本七平といえば代表作『「空気」の研究』がいまも読まれているが、不思議なことに彼が書いた「空気」の意味がよく理解されていない。単に「日本人は空気に支配されやすい」ということなら、七平でなくとも指摘している。彼が何より言いたかったことは、戦中に戦争へと駆り立てた空気を、激しく批判した戦後の平和主義が、いつの間にか新しい空気として日本を支配するようになったということだった(『「空気」の研究』への致命的誤解』を参照)。つまり、空気を批判する「水をかける」という言動そのものが、こんどは新しい空気になってしまうということである。

 たとえば、いま日本が直面しているのは、いうまでもなくコロナ禍だが、新型コロナウイルス感染が広がったころは、すこしでも早く欧州のようなロックダウンあるいは緊急事態宣言をすべきだという空気が蔓延した。ところが緊急事態宣言が経済活動の大きな影響を与えたことが分かると、今度は緊急事態宣言など必要なかったのであり、日本のコロナ禍などは「風邪並み」だから、経済活動を復活させろという、新しい空気が急速に醸成されている。

こうした現象を見れば、やはり日本は同調圧力や空気によって動く社会だから、そうしたものはなくすべきだという主張が出てくるのは当然かもしれない。しかし、ここまで述べてきたように、それらがまったくない社会などというものは成立しない。それは程度の問題であり、また、頻度の問題なのだ。どの分野においてなら弊害が大きく、どの分野なら社会を動かす要素として有効なのか、注意深く考えてみるべきなのである。

とはいえ、コロナ禍については緊急を要するので、おおざっぱになってしまうが、同調圧力や空気とコロナの関係を考えてみよう。まず、緊急事態宣言が発せられる以前にも、すでに日本社会は自粛がかなり進んでいたことが、データからも証明されている。緊急事態宣言が必要なかったというのは大きな間違いであって、生まれてきた自粛にある程度の制度的保証を与えて、急激な感染と死亡率の上昇を阻止し、医療崩壊もなんとか食い止めたと考えるのが自然であると思われる。

 問題はその後であって、緊急事態宣言が解除されると、制度的保証が消滅しただけでなく、自粛の部分にもかなり影響を与えてしまい、急激なPCR検査の件数の増加率をはるかに超える感染者の増加となって表れている。これまでは、新規感染者は20~30歳代が多かったが、このところ50歳~60歳も多くなっており、この傾向が続けば死亡率を急速に高めかねない事態といえる。

しかも、いまの反自粛論が根拠としているのは、日本に関する限りコロナは風邪並みとか、日本ではBCG接種をやっているのが免疫になっているとか。あるいは、日本人にはすでにコロナ免疫があるとか、すでに中国人からの感染によって欧州経緯のウイルスに対する免疫ができているとか。いすれも話としては面白いが、いまだに科学的および統計的にみて厳密な検証をへていないものばかりである。

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そのいっぽうで、世界を見わたしてみれば、ヨーロッパ諸国に典型的だが、ロックダウン解除後の対応しだいて、まったく異なる事態が生まれている。たとえば、スペインなどのように緩和しすぎで、外国人観光客を大勢入れてしまった国は、再び急速な感染者増加をみている。逆に、ドイツのように状況によって、規制を部分的に緩めたり強化したりの細かな対応をしている国は、部分的に増加も見られるが、激しい再発は押さえられている。つまり、似たような条件でも解除以後はやり方で大きく違うということだ。

悲惨なのはアメリカとブラジルであって、最初から政治指導者が根拠もなく「風邪並み」と判断したために、急激な感染と死亡率の急伸に見舞われてしまった。アメリカのように途中から多少は路線を変えても、もう、感染の広がりは押さえられずに、すでに17万人以上が亡くなっている。日本でもいまだに風邪並みといいたがる論者が多いが、ただの風邪が短期間に17万人の命を奪った例はない。アメリカの場合、死者は今年中に30万人に達するといわれている。

 この点、やはり興味深いのはスウェーデンで、同国はロックダウンをしないでコロナウイルスが感染するままに放置し、集団免疫が形成されることと、経済活動を継続させることを目指しているなどと言われてきた。政府当局の言い方では、医療崩壊を阻止するためにロックダウンをしないで、ソーシャルディスタンスの推奨や50人以上の集会の禁止を行い、緩慢に若い人たちに感染を広げて高齢者を隔離していけば、結果として集団免疫が生まれ、経済活動もそれほど低下させないですむという方針だった。

ところが、最初から高齢者には人工心肺は使わないようにするといった方針のためもあって、医療崩壊は起こらなかったが、老人ホームなどにクラスターが頻発して多くの死者を出してしまう。ウイルスをもたらしたのは若い介護施設職員だったといわれる。また、思ったほど集団免疫が形成されず、経済活動も30%を超える下落を記録するなどして(EUの平均は40%の下落で、スウェーデンはすごいという人もいるが、それほどの成果ではないだろう)、欧米マスコミの激しい批判を受けることになった

とはいうものの、現在は多少の感染拡大はあるが、一時のような死者急増はなくなり、欧米マスコミでも英国のテレグラフ紙などのように、評価するところも出てくるようになった。興味深いのはここからで、これは英国のフィナンシャル・タイムズが指摘したことだが、いまの時点でヨーロッパを見渡すと、コロナに対する規制においてスウェーデンは他の国よりもずっと厳しい国になったというのである。

つまり、他の国がロックダウン解除後にあまりに緩和してしまったために、緩かったはずのスウェーデンの規制が、ヨーロッパ内でかなり厳しいものになってしまったというのである。そもそも、ビッグデータによる分析によれば、スウェーデン人は意外にも自粛する国民が多かったことも分かっている。スウェーデンの場合には、何でも理詰めで物事を国民に説明して納得させる傾向があり、さまざまな失敗はあったので最初のころより支持率は下がったものの、まだ国民の39%くらいは政府当局のコロナ対策を支持しているといわれる。

 私はスウェーデンが文化的には日本とは対極にあるので、スウェーデン方式をまねるという議論には反対してきたし、いまも反対である。理論を掲げてそれが本当に正しいかどうか分からないのに、国民の支持を背景にして突っ走るという面は、とても評価できない。しかし、ソーシャルディスタンスや集会の制限などの規制を、理屈を費やして説明するというやりかたは、自然に生まれる同調圧力や空気に、添え木あるいは矯正具として合理的な方向づけをする、ひとつのやり方として検討に値すると思う。これはドイツなどのやり方にも見られるわけで(もちろん、ドイツは理屈が中心であり、添え木や矯正具とは考えないだろうが)、これから来る秋冬のコロナ対応については、日本でも有効な方法だと思われる。

さて、同調圧力と空気に戻るが、何らかの形での同調圧力あるいは空気に類したものは、社会が成立しているかぎり存在することはすでに述べた。もし、日本の同調圧力と空気に問題があるとすれば、それが即座に何の分野でも適用されて、しかも、過剰に成果が期待されてしまうことではないだろうか。山本七平が挙げている例には、戦艦大和の出撃を決定するのも空気だったという話があるが、国家の運命を左右するような戦略においても、空気で決めてしまったものがいくつも指摘されている。

もっと身近な例を考えると、会社などでさまざまなプロジェクトにおいても、空気が重んじられる傾向はまだ続いている。日本的経営は衰退したことになっているが、根回しはいまも行われており、「部長はなんて言ってるの?」とプランを立てた部下に課長が聞く風景はありふれている。そして末端にいたる構成メンバーに、まず情報を行き渡らせてから企画を実施するという根回しは、やはり日本的と呼ぶしかないものだ。ただし、困ったことになるのは、そうして決まったプランは、もはや成功しないと許されないのである。失敗しても実害が限界に達して続行不可能になるまで、本格的な見直しは行われないといった悲惨な現象は、いまもいたるところで見いだされる。

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そもそも、ある日本の経営学者が唱えた日本企業の「暗黙知」というのも、企業組織のなかに溶け込んでいる了解事項であるとされている。しかし、もともと、マイケル・ポラニーが述べた暗黙知は、世界史の背後で人類を導いている超越的な知性のようなもので、いってみれば神なのである。日本人は神のかわりに空気に頼るといえば、これは完全に山本七平の『「空気」の研究』の議論の核心そのものになる。

もう少しかみ砕いていえば、決定のための思考の蝶番となるものが、西洋文明では絶対的な神もしくは抽象的概念であったのにたいし、日本の場合は本当は一過性でしかない空気に置かれるということだ。しかし、神は利用しようとしても沈黙を守り実害をもたらさないが、日本人の空気は思考の過程を超えて、具体的に社会的効果を発揮してしまう。非合理的な企てでも同調圧力を生み出してしまうのだ。この点、やはり日本人は何かを決定するさい、よほど注意しなければならないわけである。

 これからのコロナ禍への対応においては、細かい事項について法制化あるいは制度化することが必要となるだろう。それは、たとえば今進行しているようにコロナ・ワクチンの接種順位にすでに見ることができる。また、これから迎える秋冬における感染拡大においても、これまでのように同調圧力や空気にもっぱら頼っていては、とても対応できない部分が多くなる。そしてまた、同調圧力や空気の場合には、なぜそうするのか自覚している度合いが少なく、また、非合理的な場合でも流されてしまいがちである。

 日本人から同調圧力や空気をなくする努力など無意味である。そんな、文明を放棄するようなことは目指さないで、部分的なものに限定することだけが有効だろう。そのいっぽうで、日本人の必ずしも得意ではない、理屈による説明と細かな分類提示によって対処していく部分を増やしていくということである。これは必ずしも規制強化ではなく、明示化であり柔軟で明快な説明領域の拡大である。キツイ作業になるが、可能な限り明示的にするというこの方法がいま必要とされている。

 

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