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東谷暁による「事件」に対する解釈論

プリゴジン以後のプーチンの運命;戦争継続どころか政権も危うい?

ロシアの傭兵隊長プリゴジンの反乱は、軍事組織内の対立を白日の下にさらしただけではなかった。ほかでもない、プーチン大統領による内政の手法のほころびも暴露してしまった。プーチンが直面しているのは、ウクライナによる反転攻勢の激化だけではなく、国内の支配力が激しく動揺するという、まさに内憂外患の事態なのである。

 

独紙フランクフルター・アルゲマイネ6月25日付はラインハルト・ヴェーザーの「プーチンはいま何に頼ることができるのか」を掲載した。同記事はプリゴジンが引き起こした混乱の影響は、言われているよりずっと深いのではないかと指摘している。プリゴジンプーチンが引き立て、そして育てて膨れ上がった、お化けのような存在だった。したがって、今回のプリゴジンの反乱と失敗は、そのプーチンの「作品」が破綻したということなのである。

「この数週間の間にロシアに起こった出来事は、『単なる失敗したクーデター』を遥かに超えた事態ではなかったのか。というのも、見えてきたのはプーチン大統領の権力の中心的存在だった人物の失敗にとどまらず、プーチンの権力操作についての手法そのものの失敗でもあったからである」


エスカレートする前は、プリゴジンとショイグ国防相の衝突は致命的なものではなく、プーチン自身が創造した権力システムの、一部の不具合にすぎなかった。クレムリンの内側でも周囲でも、年中、死人を出すような派閥の抗争が行われていたと、ヴェーザーはいう。そしてこうした間断なく行われる対立こそが、プーチンが権力の頂点にとどまるための養分となっていた。

絶え間なく複雑に対立するいくつもの勢力のバランスの上に立って、自らの権力を押し上げていくことを「ボナパルティズム」と呼ぶ。ナポレオン・ボナパルトの甥のナポレオン三世シャルル・ルイ=ナポレオン・ボナパルト)が、当時のフランス内の諸勢力のパランスの上に立ち、ついには皇帝に即位したからである。ジャーナリストだったマルクスの若き日の著作『ブリューメル18日』は、このボナパルティズムを精密に分析して、いまでも多くのマルクス主義者でない人にも読まれている。


話はロシアから少し脱線するが、皇帝となったナポレオン三世のもとに、プロシャの無名の外交官がやってきて「これからのヨーロッパは、あなたとわたしの時代になる」と言ったので、ナポレオン三世は唖然としたという。このガタイのでかいプロシアの外交官はビスマルクといい、プロシャでは頭角を現しつつあったが、まだ、国際外交の世界では知られていなかった。

ビスマルクは後に宰相となってから、国際政治のなかで他国との駆け引きを見事にやってのけ、プロシアを強大にし、ついには普仏戦争ナポレオン三世のフランスを打破して、ドイツ帝国を打ち立てたことは、まごうかたなき歴史的事実である。そして、ドイツ帝国を確立してのちは「勢力均衡」外交によってドイツの勢力を維持することに精力を費やした。

しかし、国内の勢力バランスの操作も、また、国際政治における勢力均衡も、言うは易く行うは難い。ナポレオン三世ボナパルティズムによって権力を手にいれたが、やがてほころびを生じさせて、ビスマルクによって最終的に破綻させられてしまう。また、ビスマルク本人が宰相であった時代、ドイツは勢力均衡外交を維持したが、ウィルヘルム三世がドイツの強さを自らの才能だと勘違いしてビスマルクを更迭し、やがて第一次世界大戦に敗北することになる。


ちょっと脱線しすぎたが、勢力のバランスをとるというのは、心がけ次第で簡単にできるようにいう人もいるが、才能とチャンスに恵まれなければとても実現できるものではない。ロシアのプーチンに戻れば、彼がこれまで国内の「ボナパルティズム」をまがりなりにも達成していたのは、政治的に危機が来たときには石油の価格が上がり、石油の価格がさがっても政治的には安定しているという幸運があったからだった。

しかし、石油の価格が上がったことで国内の安定を続けられると予想し、ゼレンスキー大統領のウクライナが挑発的となったのをチャンスととらえて、ウクライナ侵攻を断行したことで、それまでのバランスは困難なものとなっていった。外国との関係のバランスが崩れたことで、国内のバランスも危ういものになるのは、いくらでもある事態といえる。前出のヴェーザーは次のように分析している。

プーチンはしばしば不安定なバランスを維持するために、国内の対立をむしろ煽ったように思われる。ここには2つの要素が必要だった。ひとつは大統領選挙から引き出してくるレジティマシー(政治的正当性)と個人的な圧倒的人気。もうひとつが現在の状況を維持する(政治および経済における)支配階級のすべての者に与える共通の利益である」

アルゲマイネ紙より;ワグネルの行進計画と挫折

 

こうしたプーチンの支配構造を揺るがしたのは、いうまでもなくウクライナ戦争である。特に政治および経済エリートにとっては、彼らに特権を与え豊かにしてくれることと引き換えとして、プーチンに対する忠誠があった。しかし、そうした特権と富はウクライナ侵攻によってかなりの部分が失われた。とくに西側諸国との良好な関係によって得られていた収入は経済制裁によって消え去った。ヴェーザーの締めくくりの言葉は次のとおりである。

「いまやプーチンの大物政治家としての名声は、エリートたちの間だけでなく庶民のなかでも、激しく破壊されつつある。彼に残っているものは、ただ単に暴力を行使するという粗暴な意志だけになりつつあるのだ」

だいたいは、こうした構図だと思われるが、激動期の事態を見る際に注意すべきは、ウィッシュフル・シンキング(希望的観測)を極力避けて、起こっていることをなるだけそのまま見ることだ。たとえば、プリゴジンの反乱の間に起こった事態だが、ワグネルが占拠した大都市ロストフの住民は、おおむね彼らを歓迎していたように見える。また、モスクワ行進は途中で中止されたものの、正規軍はワグネルを本格的に攻撃しようとはしなかった。


こうしたワグネルへの国民と軍隊の支持のようにも見える現象だけをひろえば、あたかもワグネルの反乱は失敗したが多くの人に支持されたかのように見える。しかし、それなら、ワグネルが行進を中止したのは、なぜだろうか。この種の威嚇行動の場合、支持勢力があればつぎつぎと参加して、行進は拡大していくはずである。また、他の地域でも呼応して、行進もしくは占拠が次々と始まって不思議ではない。

しかし、こうしたアクティブな行動は生まれなかった。あるメディアは「ワグネルの周囲はおおむねパッシブだった」と報じている。これだけから何か確実なことをいうのは難しいが、ワグネルの行動は「パッシブ(受け身的)」には一部に支持されていたが、「アクティブ(積極的)」な行動の連鎖は生まれなかったといえるだろう。この認識が正しいとすれば、プリゴジンが行進を中止したのがなぜか理解できるし、正規軍が包囲しながら攻撃しなかった理由も推測できるだろう。

【追記:6月27日午後】予想されていたように、プーチンは名指しこそ避けたが、プリゴジンを批判し、ワグネルの組織は解体すると断言した。また、欧米のメディアの多くは、この反乱がプーチンのロシアの崩壊とウクライナ戦争の終結につながるとの見通しをほのめかしている。

英経済紙フィナンシャルタイムズ6月27日付の速報と「ワグナーのボスはクーデターの意図は否定」との記事は、そうした楽観論を並べたうえで、ベン・ウォーレス防相の次のようなコメントも掲載している。「ロシアのいまの混乱を過度に評価すべきではない。いってみれば、これはクレムリンの大きな脱線事故のようなものだ」。

同紙によれば、ウォーレスはプーチンの権威への影響をそれほどではないと見ているとのことである。ただし、ウォーレスはさらに、プリゴジンの行進は「わずか約2500人程度のもの」であり、ロシアの予備隊がいかに「擦り切れて」いて「伸びきってたるんでいる」かを露呈したとも付け加えている。

こうした国防相の発言は、今回のワグナーの「反乱」を軽視するというよりも、この出来事をおおげさにウクライナと西側に有利に解釈して、これからのウクライナ戦争に対する楽観が広がることを憂慮したものといえるだろう。