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東谷暁による「事件」に対する解釈論

道徳を主張する限り停戦は実現しない;スティーヴン・ウォルト教授が提示する「停戦への道」

イスラエルガザ地区での戦闘も、ウクライナでの戦争も、停戦交渉の兆しはあっても具体化するまえに振り出しに戻ってしまう。なぜなのだろうか。それぞれの当事者たちが本気でないのか、介在者たちが何か肝心な点でミスを犯すのか、それとも根本的な点で世界は勘違いをしているのか。歴史に登場した和平交渉を振り返り、いま世界は何をすべきかを考えてみよう。


今回もハーバード大学のスティーヴン・ウォルト教授の論文を手掛かりに、もっとも基本的な和平交渉への条件は何かを考えてみよう。ウォルトはフォーリン・ポリシー電子版6月13日付に「道徳は平和の敵である」というタイトルの、刺激的な論文を寄せている。「ガザやウクライナでの紛争は皆が満足するような取引では終わらない」というのが、この論文の惹句となっているように、ウォルトは紛争当事者が何かを手放さなければ停戦は実現しないという。そしてそれは「道徳」だというのである。

冒頭に登場するのは、フランスの外交官で政治家のシャルル・モーリス・ド・タレーランだ。彼はフランス大革命期に革命派の政治家として活躍し、ナポレオンの帝政期にも活躍し、その没落後、ブルボン王家による王政復活の時代にはウィーン会議でフランス代表としてフランスの地位と勢力の保全に努めた。まさに「ヌエのような存在」であり「裏切り」をものともせずに、激動の時代に権力の中枢に居続けた恐るべき政治家なのである。


ウォルトがタレーランに注目するのは、彼がつぎのような外交についての言葉を残しているからだ。「なにより大事なのは、熱くなりすぎないこと」。過剰に情熱的になること、あまりに厳格に取り扱うこと、そして過度に道徳的になること。これらはしばしば難しい国際関係問題を効果的に解決する障害になってしまうという。時流にのって裏切りを繰り返し、自分の地位を保全し続けた男に説教されたくないと誰もが思うが、しかし、タレーランは激動の時代、フランスの国際的地位を維持することに成功したとも評価されている。

そこでまず、「熱くならない」という鉄則を破った例として取り上げられるのが、英国とアルゼンチンのフォークランド紛争である。ウォルトはアビゲイル・S・ポストの論文に言及しながら、しなくてもよい戦争をしてしまった事態として捉え、英国とアルゼンチンの両国が、それぞれの道徳的原理にこだわった経緯を浮かび上がらせている。(なお、この論文でのモラルあるいはモラリティは道徳と訳しているが、倫理的といった制度的なニュアンスや、より幅広い道義的価値という意味が含まれていると思って読んでいただきたい)。


英国は自国から遠く離れた、英領フォークランド諸島に住んでいる英国人の権利の確保および安全確保を主張し続け、そしてアルゼンチンは島が自国の領土だったという歴史的根拠に返還を声高に述べていた。1982年、アルゼンチン軍が海兵隊を上陸させたのを機に、サッチャー英首相は海軍を派遣してアルゼンチン軍を短期間で撃破してしまう。「端的にいってしまえば、道徳的な主張が、他の課題から分離可能で潜在的に解決可能な問題を、分離不可能で取り扱いが困難な紛争に変えてしまったわけである」。

洋上に浮かぶ島の領有をめぐる問題という点では共通している台湾についても、ウォルトは「道徳的な論点」を強調し合い、「熱くなってしまう」危険があることを指摘している。中国は台湾がもともと中国の領土であると強調するが、台湾とその支援国はいまこの島の住民2400万人が中国共産党の支配を望んでいないことを根拠として、中国の領有に反対している。「この対立を道徳的に主張していけば、両国の妥協が困難になる」。


そしてウクライナ戦争もまた、当事者間でそれぞれの道徳的な主張をぶつけ合いつづけたことで、生じてしまった典型的な事態であるといえる。ウクライナにとっては、この戦争は国家と聖なる領土を守るための戦いであり、同政府への支援をする西側国は自分たちが考える秩序観を道徳的原理として称揚する。いっぽう、ロシアにしてみればNATOウクライナを加盟させて、さらに自国への脅威となることを許せないとしている。

双方はますます戦争を継続する理由として、道徳的な主張を強める傾向があり、ウクライナが強調しているのは、ここでロシアを撃退できなければ、さらにヨーロッパ諸国が攻め込まれ、プーチンの野望の餌食になってしまうという恐れである。それにたいしてロシアが主張しているのは、そもそもウクライナとロシアは文化的に同源であり、ドンバス地方にいるロシア系住民を保護する必要があるということだ。そしてウクライナを動かしている「ナチス勢力」を取り除かなければ自国への脅威はなくならないということである。


ここまで道徳的な対立が加速すれば、妥協の余地はほとんど存在しなくなる。「ゼレンスキーがたとえばロシアとの妥協をしようとすれば、同国内の強硬派に辞任させられるかもしれない。また、プーチンは国内の反対派には弱くないかもしれないが、ウクライナとの妥協をいいだせば、彼が主張してきた戦争の正当性や、国民の義務についての道徳的説明と矛盾をきたすことになってしまうだろう」。

最後に取り上げるのは、いうまでもなくイスラエルハマスの戦争である「ガザ地区」での事態であり、実は、この地でのユダヤ人とアラビア人との軋轢は、19世紀にシオニズム運動が始まり、この地へのユダヤ人による入植がはじまって以来の事態である。「そして不幸なことに、それぞれの主張には、土地は自分たちのものであるという歴史的な背景をもった道徳的観念が含まれていて、敵対するものたちは多くの罪を犯していると考えているのである」。


アメリカ人は他の人たち同様にこの問題に巻き込まれて続けている。ハンス・モーゲンソーやジョージ・ケナンといった国際政治のリアリストたちは、アメリカの政治リーダーたちが、道徳的な用語によって語られる主張に、はめ込まれてしまうことを嘆いてきた。こうした傾向は効果的な外交を展開するさいに、きわめて深刻な障害となる。道徳的言葉は、同国の市民を駆り立て支持を得るには役に立つが、アメリカ政府がそれと異なる行動を取らざるをえないときに(それはしばしば起こるのだが)、きわめて偽善的に映る原因となってきたのである」

この偽善的に見える事態は、これまでの戦争にかんするアメリカの歴史を振り返れば、実に多くあるとウォルトはいう。たとえば、第二次世界大戦が終わった直後、それまでは天皇が日本の軍隊を戦わせているのだと批判してきたはずなのに、「無条件降伏」をさせたというのに、東京裁判では多くの軍人や政治家を処刑するいっぽう、天皇はそのままの地位に残した。また、戦時中はソ連を同盟国としていたのに、ソ連が「鉄のカーテン」を張り巡らしたときにも、アメリカはソ連のそうした行動を是認して、戦後の平和の「コスト」であると考えようとした。


では、これからガザ地区ウクライナでの戦争をどうやって停戦にもっていけばいいのだろうか。「ガザとウクライナでの紛争は、当事者たちが完全に満足できるような合意で終わるということはありえない(不満を抱えたままやめさせるしかない)。すべての勢力は彼らが望むものを手に入れることはできないし、政治リーダーや評論家たちが声高に主張してきた道徳的主張は裏切られることになるだろう」。

こうした主張をするために、ウォルトを初めとするいわゆる国際政治のリアリストはしばしば冷血漢であるかのようにイメージされている。しかし、道徳的で理想的な解決を追及し続けるために、時間がかかりすぎて犠牲が多くなり、結局は悲惨な結果に終わることは多い。そうした事態を回避するために、国際政治においては「道徳は平和の敵」と認識することが必要なのだ。なぜなら国際社会は実はアナーキーで非道徳的だからである。ウォルトは最後に付け加えている。「もしタレーランがいま生きていれば、『わたしはとっくの昔にそう指摘していたではないか』と言うのではないだろうか」。