まさにロシアがウクライナ侵攻を開始しようとしていたそのとき、中国の習近平はどこで何をしていたのか。ウクライナ侵攻が起こったときの中国の損得を、側近たちとしっかりと計算していたのである。ロシアのウクライナ侵攻にさいして、中国外務省がロシアではなくアメリカを批判するという、ある意味で不思議な現象は、この計算のひとつの結果にほかならない。
ニューヨークタイムズ紙2月25日付はエドワード・ウォンの「アメリカの高官たちは繰り返し中国がウクライナでの戦争を食い止めるのを助けるように説得した」を掲載した。「ウクライナ侵攻が始まる前の3か月間以上にわたって、バイデン政権の高官たちは6回ほど中国の高官たちとの対話を行った。そのときアメリカ大統領府が入手した、ロシア軍がすでにウクライナの周囲に集結している情報が示された。そして、中国にロシアに侵攻を思いとどまらせるよう、説得しようとしたのである」。
この繰り返された説得工作について、同記事は細かく記述している。習近平と側近たちは活発に議論を繰り返し、ウクライナ侵攻がおこった場合の中国にとっての「アドバンテージ」と「ディスアドバンテージ」を検討した。このときの検討材料には、当然、アメリカ側が提供した情報が入っていたといわれる。興味深いのはこの記事について、同日付の外交誌ナショナル・インタレストに、急遽、グレアム・アリソンが「ウクライナ危機:中国はプーチンを支持するのか?」を寄稿したことだ。
national interestより:ウクライナ侵攻によるアドバンテージは何か
アリソンとは、言うまでもなく『決断の本質』や『米中開戦前夜』で知られる外交問題専門家だが、この米中の交渉の経緯について、ウォンの記事が触れなかった事実を付け加え、さらに彼なりの予測をしている。「この記事で(ウォンが)レポートしていないことは、アメリカのブリンケン国務長官が電話で、中国の王毅外相に中国にウクライナ侵攻を阻止する支援を要請していたさいに、ある警告を発したという事実だ。ブリンケン国務長官は、もしプーチンがウクライナ侵攻に突っ走ったとき、中国が深刻に受け止め、明示的にそれを制止しなければ、アメリカ政府は中国をロシアとの共犯者と非難するとまで述べたのである」。
いまから振り返れば、こうしたアメリカの警告を中国は無視したわけだが、ブリンケンは「新冷戦思考」を突き付けたといってよかった。つまり、「ブリンケンは、もし中国がプーチンによる主権国家への軍事侵攻を是認するなら、アメリカ=EU=アジア諸国による、ロシア=中国の「悪の枢軸」への対決を見ることになると警告したと思われる」。そこで、中国はこうしたやりとりを踏まえて、習近平と側近たちが、ウクライナ侵攻によって生じる中国のアドバンテージとディスアドバンテージを、比較衡量することになったのだという。
national interestより:ウクライナ侵攻によるディスアドバンテージは何か
さて、この二つの内容は、ざっといって次のようなものだとアリソンは例示している。アメリカ主導の経済制裁は世界市場に対してどれほどの影響を与えるか? ロシアが供給してきた天然ガスがストップするようなことになったとき、アメリカとEUはどこまで連携して動くことになるか? ウクライナ侵攻に対して西側諸国がみせる反応は、中国内に予想できないほどの破綻をもたらすのか? もちろん、これらを正確に予想することは誰にもできないが、たとえば、冬季北京オリンピックが開催されるさい、北京を訪れたプーチンに対して、習近平が何と述べていたかは推測できるとして、アリソンは次のように記している。
「第一に、ウクライナ侵攻はあなた(プーチン)が決めることで、私(習近平)が決めることではない。したがって、いまの時点で中国がとやかくいうべきものではない。第二に、ウクライナ侵攻は中国にとってはなはだしい被害をもたらすことになるが、それはあなたも考えてみてほしい。第三に、にもかかわらず、中国はロシアがやらねばならないことをやるのだということは、理解しているつもりだ。第四に、もしロシアが侵攻を決断すれば、とんでもない暴走でもないかぎり、中国がロシアを支持すると考えてもよい」
本当に習近平がこのように述べたのかは、もちろん、分からない。しかし、おそらく「中国はロシアを支持する」という言質を与えたということは十分に推測できる。そしていまの現実を見る限り、側近たちと新しい情報を検討してからも、このときの考えは変わらなかった。アリソンは結論づけている。「こうした分析から生じる私の見通しは、習近平は中国とロシアの機能的な『同盟関係』を打ち立てることに乗り出した、というものだ。そして注目すべきは、この同盟関係はアメリカがいま形成している通常の同盟関係よりも、実践上、ずっと重要なものだということである」
タイトルの「そのとき」にはもうひとつある。それは「いま」だ。アリソンは「新冷戦時代が到来した」と指摘しているわけだが、東アジアにおける外交においても大きな影響が生じる。特に台湾問題については、おそらく習近平はプーチンのウクライナ侵攻と、その後に続いたアメリカおよび西側諸国の対応を、細い目でしっかりと観察しているだろう。それは金融制裁を派手に行うものの、軍事的な支援はほとんどなく、ウクライナは武装解除のうえ傀儡国家とされるという見通しであり、さらにそれは、台湾問題についてきわめて参考になるケースだということである。
気になるのは、前回、ジョン・ミアシャイマーの議論を紹介したが、ロシアはウクライナが欧米に繰り入れられるのを嫌うとの説を聞くと、単純に、それならウクライナはロシアにまかせたほうがいい、というようなことを言い出す人がいることだ。その類の人は、同じ口でウクライナと台湾は歴史的にまったく違うから、台湾は中国から守るべきだと付け加えるのである。まず、ミアシャイマーはウクライナを欧米は放棄しろと言っているのではなく、「緩衝国家」にすべきだと述べていたのだ。また、台湾はウクライナと違うというとき、大国に接している国家の存続という共通性を、果たして、どこまでちゃんと考えているのか疑わしいことが多い。
FT.comより:キエフの陥落はもはや時間の問題だ
たしかに、ウクライナと台湾には条件において大きな違いがある。しかし、この種の論者が述べている、ウクライナはもともとロシアの一部だったが、台湾は最初から中国の一部ではなかったというような、単純な判断から論じられるものではない。そもそも、ウクライナはもともとロシアの一部だったという議論の多くは、昨年7月、プーチンが自分の名前で発表した、おそらくはウクライナ侵攻を前提とした、プロパガンダ文書「ロシア人とウクライナ人の歴史的一体性」をなぞっているだけなのである。
ウクライナは10世紀のキエフ公国にまでたどれる古い歴史をもった国であり、ロシアはそこから分離した分家のようなモスクワ公国が起源だ。また、ウクライナは長い間にわたり他国の支配に苦しんできたとはいえ、独立した一国家としてアイデンティティを確立していた。プーチンがいうような(そしてろくろく調べもせずに唱和する日本人がいうような)、ソ連時代とその後だけがウクライナの歴史ではない。だからこそ、ソ連が崩壊したことでウクライナという国家を「再興」することができたのである。
台湾を考えるさいにも、中国との関係を軽く評価するために、中国にとっては「化外の民」だったといって片付けている驚くべき人がいるが、すくなくとも400年のアイデンティティ形成の歴史があり、そのなかには鄭成功による明朝亡命政権の時代もある。また、17世紀中ごろから19世紀末ころに日本統治下になる前の、200年ほどの清朝時代がある。第二次世界大戦が終わってからも、中国国民党の亡命先という性格をもちつつ、独自の歴史を何重にも積み重ねてきた。1971年、アメリカが中国を対ロシア戦略に使うために、台湾との国交を断絶し(台湾関連法はつくったが)、台湾は国連から脱退したという経緯があるが、それを理由に台湾は独立した主権国家ではないと決めつけるのと同様、こうした中国大陸からの影響をまるで無視するような姿勢は、かえって台湾の深い理解と有意義な支援を阻むものだろう。
こうした複雑な状況にあるからこそ、総統を務めた李登輝は単純な政治的発言をひかえて「わたしはいちども台湾独立を唱えたことはない」と言っていたのだ。この発言には相手によっては次のような言葉が付け加えられていた。「なぜなら台湾はすでに主権を確立した国家だからだ」。対外的には(とくに中国に対しては)独立を追求することはないとメッセージをおくり、対内的には(理解ある友好国にも)われわれはすでに主権国家だと胸を張ったのである。
もちろん、急激にナショナリズムを加速させて巨大化したいまの中国に対して、こうしたエレガントな戦略が通用するとは思えないが、李登輝時代にはこうしたレトリックや使い分けを駆使した、自国のアイデンティティ保持を続けてきたことはたしかだろう。それすらも通用しなくなる習近平の中国に対しては、さらなる複雑な対応が必要であり、さらなる友好国の支援が必要になるわけである。
したがって、われわれがウクライナを見るさいには、隠れロシア派で陰謀論者の口車に乗せられ、プーチンのプロパガンダに乗ってはならないし、また、台湾を見つめるさいには、まったく中国の影響がまるでなかったような浅薄な思考は排して、台湾のアイデンティティの重層性を認めねばならない。それぞれに独自で複雑だが、かけがえのない歴史があった。しかし、いずれの国も大国と接する位置にあり、大国の都合によって翻弄されてきたにもかかわらず、ひとつの主権国家として歴史を形成してきたのだ。それは今回のウクライナ問題でも、これから始まる台湾問題の顕在化についても、誠実に考えるさいの大前提にほかならない。