現在、イスラエルとハマスは一時的停戦に入っていて、ハマスがイスラエルから連れ去った人質と、イスラエルが拘束しているパレスチナ人捕虜との交換が行われている。この停戦が可能になったのはアメリカが本腰になって介入したことが大きかった。そのタイミングや方法についての評価はこれから論じられるだろうが、ウクライナ戦争やイスラエル・ハマス戦争へのアメリカの関与について、歴史的に比較する議論が見られるようになっている。
英経済誌ジ・エコノミスト11月23日号の「レキシントン」欄には「ウクライナ支援に積極的な(いわゆる)孤立主義者のケース」が掲載されている。このレキシントンと呼ばれるコラム欄は少しばかり皮肉の効いた文章が多く、今回も米共和党のJ・D・ヴァンス上院議員の発言を取り上げて、同議員の「不勉強」をからかいながら、「アメリカは何を歴史から学べるか」というテーマに仕上げている。
不勉強にこだわっても仕方がないが、いちおう紹介しておくと、アメリカの孤立主義を唱える傾向が強いヴァンス議員は、奇妙なことにウクライナへの支援を支持しているという話から始めている。ヴァンスは自分の見解を表明するさいに、ヒットラーの台頭を押さえようとしなかった、英首相チェンバレンの歴史的な失敗を取り上げて、「いまウクライナでプーチンの東への進軍を押さえないと、彼はベルリンまで到達してしまう」と述べたというのである。
もちろん、ここでの「東への進軍」は「西への進軍」の間違いで、おそらく単なる言い間違いだと思うが、同誌はごていねいにミシガンにあるヒルズデイル大学の歴史学教授ポール・ラヘを引っ張り出して、「ヴァンスが歴史を理解しているとは思えない」などと言わせている。さらにラヘ教授はチェンバレンを引くよりも、もっとさかのぼって、古代ギリシャのスパルタの戦略を思い出したほうがいいとも言っている。
アテネが急速に台頭して周囲を脅かすようになったとき、スパルタはギリシャの他の都市国家と緊密な連絡をとり、しかも、直接アテネと戦うのは避けて、アテネと戦うことになった都市への支援を熱心に行うようになったというのが、教授が語っている「スパルタの成功」である。つまり、自らは戦わない「代理戦争」によってスパルタは戦争コストを低く抑えて、アテネを押さえることができたというわけで、いまのウクライナを支援する戦略と重なるというのである。
同コラムはこうした説を紹介しながら、バイデン大統領にとって共和党の孤立主義的な政治家が、ウクライナへの援助を支持してくれるのは、痛しかゆしだったろうと述べているが、「しかし、バイデンは彼の政治的責任を考えれば、個人的にはヴァンス発言を歓迎したのではないだろうか」。もちろん、それで終わりではない。さまざまな歴史的事実は、たしかに何らかの形で判断の助けになるが、それはそれで解釈が難しい。
この30年のあいだ、アメリカの外交は冷戦の終わりがあたかも「歴史の克服」だったかのような幻想をいだいてきた。(ここらへんはフランシス・フクヤマの「歴史の終わり?」を意識しているのだろう)しかし、いまや歴史は克服されるどころか、中国やロシアの新しい動きが次の歴史の展開を生み出そうとしている。しかし、いまの新しい動きはけっして、アフガニスタンやさらにアラブ世界に民主主義化を促すものではない。
「いまもなお、いくつもの国家が『失地回復』をめざす野望をいだいている。それらは(必ずしも本当に歴史的に正当化されるとは限らないが)第2次世界大戦のときの出来事が当てはまることもあれば、また、第1次世界大戦や古代ギリシャのペロポネソス戦争が当てはまることもある。愚かな者だけが、こうした歴史事実から繰り返し学習することになるのである」
このコラムはこうした意味深長な文章で終わるのだが、では、いったい人間は歴史から本当に学べるのだろうか。あるいは、人間は歴史から学んで、教訓をいかすことによって歴史の終わりを迎えるのだろうか。「愚かな者だけが」と言っているが、これは人間すべてをさすものであり、本当に歴史の法則を知るということはできない、と解するのが妥当なのではないだろうか。
今回のウクライナ戦争もイスラエル・ハマス戦争も、まだ継続していて終わっていないが、少なくとも多くの歴史的事実を残しつつある。少し乱暴に結論づければ、いま分かっているのは、戦争によって何か理想的な状態が生まれるというのは幻想であり、そして歴史の法則などというものがあっても、それを人間が本当に知ることはできないということである。残されているのは「ほどほどの状態」を実現すること、そして自分たちは「完全な知識を得ることはできない」ことを自覚するだけである。