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東谷暁による「事件」に対する解釈論

イスラエルは自滅してしまうのか?;ネタニヤフの国家のあとに来るものを考える

イスラエルハマスから提示されていた停戦案を問題外として拒否した。介在していたアメリカの顔は完全に潰された感がある。しかし、これはイスラエルの孤立を加速したのではないだろうか。いかにハマスの行為に対する憎しみが深いとしても、その報復は過剰なものとなっており、アラブ諸国はもとより、欧米諸国にも批判的な見方が広がっている。では、いまのイスラエルが抱えている問題とは何なのだろうか。


米外交誌フォーリンアフェアーズに、イスラエルのクオリティ・ペーパーである「ハアレツ」の編集長アラフ・ベンが「イスラエルの自滅」と題するかなり長いエッセイを寄稿している。副題は「ネタニヤフ、パレスチナ人、そして無視の代償」。ハアレツは欧米のマスコミが、イスラエルの世論として紹介することが多いのだが、立場は「中道左派」であり、かなり知的に高い層の購読紙といえる。したがって、安易にこれがイスラエル国内の中心的な議論だということはできない。今回の同紙編集長ベンのエッセイも同様だと思われる。

しかし、そこにはイスラエル知識層の願いのようなものが込められており、賛同できることも多いので、核心部分を紹介しておきたい。このエッセイはモーシェ・ダヤン将軍のエピソードから始まる。ダヤン将軍は第3次中東戦争のさいに、国防相として電撃作戦によってイスラエルを救った英雄である。そのダヤンが1956年、参謀長時代に、パレスチナ人たちに惨殺された21歳の青年の葬儀でスピーチを行っている。

「責任を殺人者たちに押し付けることはつつしみたい。8年もの間、彼らはガザの難民キャンプに押し込められていて、彼らの目の前で彼らと父たちの土地と村が、われわれの土地に変えられていくのを見ていたのです」。このときダヤンは1948年の独立戦争のさいに、アラブ系住民が「ナクバ」と呼んだ、父祖の地から追い払われ強制移住させらる「惨禍」について思い浮かべていたのだとベンは述べている。


この感情に抑制の利いたダヤンの言動は、必ずしもいまのイスラエルが直面している問題に、直接の示唆をするわけではないとベンも分かっている。「もし、ダヤンが現代のイスラエルで講演していたら、殺害犯たちの残虐行為を非難しつつ、弔辞を述べたことは間違いない」。しかし、それにもかかわらずベンの長いエッセイは、ダヤンが示したある種の精神的姿勢が必要であることを説いている。

このときのダヤンといまのイスラエルの間に、立ちふさがっているのは何だろうか。すぐに私たちに考えられるのは、惨禍の規模だろう。体が切り刻まれ目玉が飛び出す状態で放置されたとはいえ、1956年は1人の青年だった。しかし、昨年の10月7日の惨禍は1200人の死者を出し、ハマスは200数十人の人質を連れ去った。これはまったく比較の対象にならないのではないか。

ベンはその疑問には直接応えずに、イスラエルの入植と囲い込みが継続したことや、ハマス武装が高度化したことを述べるのみである。そして、戦前にパレスチナにやってきた入植者たちが戦後イスラエルを建国し、以降、パレスチナ人たちや周囲のアラブ国家との軋轢を続けてきた経緯を回顧している。そのなかでハマスの急襲が起こって、イスラエル軍パレスチナ人たちへのシンパシーを感じさせない、陰惨な掃討戦にのめり込んでいった最大の要因を、ネタニヤフという人物に見出していくのである。


ネタニヤフが属してきたリクードという党は、まさにダヤンが持っていたような異質な他者にたいする想像力を、最初から拒否する政治団体だった。1993年にアメリカとノルウェーの仲介で、イスラエルパレスチナ解放戦線との間に「オスロ合意」が成立しかけ、いわゆる「二国家解決」にまがりなりにも進み始めたとき、それを破壊していったのがリクードでありネタニヤフだったという。

それが最も顕著に表れたのは、ネタニヤフがパレスチナ人の勢力を分裂させるための努力を惜しまない工作に走ったときだった。ネタニヤフは、敵であるはずのハマスへの支援を、カタールに勧めたのである。これは中東現代史をかじったものなら知っている話で、この点でネタニヤフは、通俗的な意味でのマキャベリストの典型といえるだろう。そしてまた、通俗マキャベリスト的な狡知によって、ネタニヤフが政権を簒奪した直後に起こったのが、ハマスによる大規模な急襲だった。


ネタニヤフが政権を獲得するために、道徳的には非難される手法を用い、そしていま自分の政権を維持するために、人道的問題よりも政権内右派の神学的発想に耳を貸していることは確かだろう。また、ここでベンが記述する歴史は、因果関係として追跡するのには困難があるが、中道左派でありしばしばパレスチナ人へのシンパシーを表明する新聞の編集長であるベンにとっては、実体験に近いものなのだろう。

ヨーロッパに生まれたとされる寛容論は、カトリックプロテスタントとの間の激しい摩擦を鎮静化するために論じられた。中東の紛争を論じる人、とくに日本の外務省関係者あるいはOBには、中東の紛争は「宗教問題ではない」と言い募る傾向があるが、これは問題を別の局面で論じたいための単純化か、解決不可能な問題の核心をあえて外すための知的操作だと私には思われる。しかし、いま必要なのは宗教問題を意識してもなお、それを超える原理を思い出すことなのではないのだろうか。


ベンのエッセイはそれを可能にするのは人間の「進歩」なのだと指摘している。しかし、それでは、宗教論から進歩論というイデオロギーに、対立を克服できない論点を移行させているに過ぎない。人間の心理や精神に他者への配慮があることを論じてきたのは、かならずしも進歩主義ではなかった。それはむしろ、シンパシーという人間に共通の精神作用をある程度まで信じて、過去や他者につながろうとした知的営みによるものだった。そのことは次の文章を読めばベンも認めていることが分かる。

イスラエルパレスチナ人を無視するかぎり、そして、彼らの願望、彼らの物語、彼らの存在すらも拒否しつづければ、イスラエルが平穏を手にすることはできない。これはダヤンの警告から学ぶべき教訓だ。イスラエルパレスチナと共に生きようとするなら、たがいに認め合って共存しようとするなら、お互いに手を差し伸べあう必要があるのだ」

これはある意味でありふれた教訓かもしれない。しかし、それは進歩主義というようなものではない。それは宗教、政治、経済の底にあって、真摯に歴史を見つめれば、ほんのわずかであるとしても、たしかにそれは根底にある。歴史の大部分はそうした教訓の発露そのものを、無視することから成り立っているというしかないことは、認めざるをえないにしても、そうなのである。