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東谷暁による「事件」に対する解釈論

ゼレンスキーの「正体」(4)プーチンとの直談判は空振りに終わる

7月15日にはロシアとウクライナとの穀物輸出をめぐる合意が得られ、同月21日にロシア政府系ガス会社がドイツにガスの供給を再開するとのニュースが流れた。それなら、ウクライナ東部と南部での停戦交渉も再開するのではないかと思った人がいるかもしれない。しかし、それは期待できないことも直後に明らかになった。実は、ロシアとウクライナとの「停戦交渉」は、ロシアのウクライナ侵攻以前から何度も繰り返されてきた。


こうした現実を理解するには、すくなくとも2014年のロシアによるクリミヤ併合と東部への事実上の介入の時点までさかのぼって考えなくてはならない。そして、その後に成立したミンスク合意とミンスク合意2について振り返ることが必要なのである。しかし、そのころゼレンスキーは大統領ではなく、彼が2カ国の停戦交渉の「現実」に直面するのは、2019年9月に開催された露・ウ・仏・独の4カ国首脳会議においてだった。

ゼレンスキーはこの年に行われた大統領選挙で大勝し、与党である「国民の僕」が圧倒的勝利を収めた勢いにのって、ロシアのプーチン大統領との直接の会談を実現しようと画策しはじめた。ほかでもない、大統領選挙のさいの公約のひとつである「ドンバスでの紛争を終わらせる」を実現するためである。その可能性が生まれたと、ウクライナ国民に期待を持たせたのが、パリで開かれた「ノルマンディ・フォー」の2回目会談だった。

 

第1回目はノルマンディ上陸作戦70周年記念の式典に世界の首脳が集まったさい、破綻していた停戦協定ミンスク合意を再構築するため、フランスのオランド大統領、ドイツのメルケル首相、ロシアのプーチン大統領ウクライナのポロシェンコ大統領が非公式に会談をもち、その成果はミンスク合意2として露ウ当事国に受け入れられることになった。

しかし、このミンスク合意2は、ひとことでいってロシアにとって有利なもので、ドンバス地方が独自の選挙を行うこと、紛争で生じた戦争犯罪は問われないこと、ウクライナ側の非公的軍事勢力は解散することなどが盛り込まれていた。発表されるとウクライナ国内では、とても受け入れられないとして、反対運動が盛り上がった。

第2回目は2019年9月にパリで開催されることになり、フランスはマクロン大統領、ウクライナはゼレンスキー大統領に代わっていたが、ウクライナのスタッフは緊張した面持ちで会談に臨んだ。というのも、仏独はミンスク合意2の枠組みは維持するつもりでいたし、ロシアにいたっては、その確実な順守をゼレンスキーにさらに強く要求するつもりでいることが予想できたからである。


ところが、ゼレンスキー自身は緊張した表情を見せてはいたが、この国際会議を晴れの舞台と考えていたようで、ロシアとの停戦というお土産をウクライナに持ち帰ることができると思っていた。ルーデンコの『ゼレンスキー』によれば、ポロシェンコ前政権で外交にかかわったロマン・ベズメルトニィは、ゼレンスキーに呼ばれて準備への協力を要請されたが、1カ月ほどで辞任した。それはゼレンスキーやその取り巻たちと話をしてみると、とてもまともな外交戦略を考えているとは思えなかったからだという。

「私はゼレンスキーに、ウクライナ東部についての状況をどう思うか聞きました。彼は来年2020年にはドンバス問題は解決すると答えました。しかし私は、彼にそのためのアイデアが何もないことに気がついていました。『ドンバス問題を解決する』という言葉は、『腐敗と闘う』とか『経済改革に取り組む』という選挙用の言葉と同様、まったく内容のないものだったのです」

では、ゼレンスキーはどのようにロシアとの交渉を進めるつもりだったのか。前出ルーデンコの分析によれば、ゼレンスキーは直接プーチンに会ってロシア語で会話をすれば、プーチンの心を動かすことができると思っていたのではないかという。プーチンに対してドンバスの紛争で死んだ1万4000人の犠牲者の話をすれば、哀悼の念を持つのではないかと信じていた形跡があるというのだ。


ウクライナ大統領は自分の役者としてのカリスマ性や魅力が、パリでのノルマンディ・フォーでも発揮できると思っていたようにみえる。そして彼はウクライナ東部での紛争終結ウクライナへのお土産にできると考えていたかもしれない。しかし、ゼレンスキーは肝心なこと、ロシアのプーチンという男も役者としてはかなりなものだということを、忘れてしまっていたのである」

やや、ゼレンスキーの甘い思い込みや自惚れに重点を置いた分析になっているが、少なくともゼレンスキーはプーチンとの直接のやりとりに、過剰な期待を持っていたことは間違いない。そしてまた、外交に必要な微妙な駆け引きには無関心だったことも本当だろう。結局、ゼレンスキーはロシアの外相ラブロフと話を詰めることになってしまい、無愛想に頷きながら延々と語るラブロフに、腹をたてて怒鳴ったという。「ラブロフさん、もう分かったから、頷くのをやめてくれないか。そんなものが欲しいんじゃないんだ」。


2014年のクリミヤ併合とウクライナ東部の「現状」を認めるという前提は、それを主導してきたドイツの大統領の名をとって「シュタイマイヤ―・フォーミュラ」と呼ばれてきた。停戦を実行すること。軍隊を紛争地から引き揚げること。ウクライナ議会は戦争犯罪を罰しない法律を作ること。東部独自の選挙を実施すること。それは実はロシアの立場を強く反映するものであり、これをウクライナが受け入れることは「降伏」を意味するも同然だった。

ゼレンスキーのアドバイザーだったボーダンは、パリの「ノルマンディ・フォー」に同行したが、終始不機嫌で、記者団が質問してもまともに答えなかった。それどころか、ゼレンスキーが話をしている背後で戯歌をうたうなど、ふてくされた態度を見せたので、これが彼の解任に繋がったという説がある。変わってボーダンの地位を占めたのは、このとき外交についてのアドバイザーを務めたアンドリィ・イェルマックだった。

すでに述べたように、ボーダンは辞めてからゼレンスキー政権の内情をあれこれ暴露したが、ゼレンスキーに政治というものが分かっていなかったと述べたのは当然だった。パリに向かう前には外交的勝利をもたらすようなことをいいながら、お土産にしたのは以前よりも義務が強化された「降伏」だった。このお土産は当然のことながら、反対を表明する数千人規模の抗議集会によって迎えられることになる。(つづく)