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東谷暁による「事件」に対する解釈論

アメリカの世界戦略はどうなるのか;バイデンが演じ損ねた「世界の警察」のゆくえ

イスラエル軍がシファ病院に突入して、イスラエルハマス戦争は新局面を迎えたが、どのような結末を迎えようとアメリカ政府の責任は大きい。そして、いかに病院への突入は好ましくないといったところで、バイデン大統領の再選には暗雲が立ち込めている。この大統領はいったい世界をどうしようと思っていたのだろうか。何か大きな勘違いをしていたのではないだろうか。


シファ病院突入の直前に英経済紙フィナンシャルタイムズ11月15日号に掲載された、国際政治コラムニストのギデオン・ラックマンによる「中国、ロシア、イランとアメリカ撤退の見通し」は、次のような文から始まっている。「ジョー・バイデンは単に老いた男であるにとどまらない。彼は老いた観念の代表でもあるのだ。それは1940年代にまでさかのぼることができる」。

つまり、ウクライナ戦争に積極的に加担し、イスラエルハマス戦争をコントロールし、イランの拡大を阻止しようとしているバイデン大統領は、どういうわけか積極的に世界を引っ張る古いタイプのリーダーを目指してきたというわけである。そしてそれは、第二次世界大戦の時代なら分からないこともないが、とっくに時代遅れになったアメリカ大統領のイメージであり、1945年あたりで終わったとされたリーダー像ではないかというのだ。


「世界の人々は、バイデンは第二次世界大戦終結の時点までバックしてしまったのではないかと見ている。つまり、アメリカのエリートたちが1930年代に孤立主義をとってしまったために、ナチスドイツの台頭や日本帝国の跋扈を許してしまったと後悔していたころにまで戻ってしまっている。ワシントンの安全保障戦略は、あのような間違いを繰り返してはならないというわけである」

しかも、バイデンの前任者だったドナルド・トランプ大統領が「アメリカ・ファースト」を掲げて再び孤立主義に戻ってしまったという事実が、こうしたバイデンが共感する「あの間違いを繰り返したくない」という思いに拍車をかけたと思われる。トランプはアフガンから撤退を開始したが、バイデンは大統領に就任するとこの撤退を加速して、多くの問題を起こした。これもバイデンにとっては自分が急ぎすぎたとは思われず、ひたすら孤立主義のもたらした悲劇だと受け取ったのかもしれない。


バイデンはウクライナ戦争を「ロシアが二度と他の国に攻め込まない程度まで、ロシアの軍事力を低下させる」ための戦争と位置づけており、こんどのイスラエルハマス戦争についても、中東の平和を実現するためには、あとで後悔することのないように、イランの台頭を抑え込み、その代理戦争を行っているハマスヒズボラを徹底的にたたく必要があると考えたのかもしれない。

「しかし、アメリカが積極的に世界を指導するには、いまや実践的な障害が存在している。安全保障をめぐる緊張が高まるにつれて、アメリカが3つもの地域で世界の警察として役目を果たすには困難が生まれている。たとえば、バイデン政権はウクライナへの武器供与について、どうもしみったれたところがあったのだが、これは国防総省台湾海峡での戦争に備えて、武器弾薬のストックを減らしたくなかったからだった。また、すでに財政赤字は年に対GDP比で5.7%に上昇して、累計では123%に達してしまっている」

では、ラックマンはどうしろというのだろうか。ここらへんから、ラックマンは今回どうも煮え切らなくなる。彼は国際政治学における「リアリスト」の説を取り上げるのだが、その説に賛同するためかと思いきや、そうでもないのである。「ミアシャイマーやウォルトはヨーロッパ、中東、そしてアジアについては『ワシントンは安全保障の問題にかんして、責任をそれぞれの地域勢力にまかせるべきだ』というのである」。しかし、そうすれば「責任を負わせるべき地域の勢力はロシア、中国、そしてイランということになるが、それぞれがまさに混乱の中心となる問題を抱えているのだ」。


おおざっぱにいって、地域の中心勢力にまかせろという考え方はリアリストたちの特色で、たとえばヘンリー・キッシンジャーの場合などは、その地域パワーが自由と民主主義であるか否かは問題にならない。彼の90歳のときの著作『世界秩序』では、それぞれの地域が「秩序」を達成できればそれでよしとする。自由と民主にこだわって「そうでなければアメリカが与えてあげる」と考えるのが間違いで、そう考えて始めたのがイラク戦争だったことを思い出すべきだろう。無理な押し付けあるいは短期での体制変更を要求するやり方こそ「理想の幻滅」(ミアシャイマー)を生み出すのだ。

もちろん、国際関係論のリアリストがすべて、いまの中国が北東アジアの最大の勢力だから、この地域は中国に任せてしまえばいいといっているのかといえば、必ずしもそうではない。「必ずしも」といったのは、それなりにバリエーションがあるからだ。たとえばキッシンジャーが、早晩中国が北東アジアの秩序の中心となると考えたのは、中国との国交回復を進めた1970年代以前からで今も同じだが、いっぽうミアシャイマーなどは、大きな流れとしてはそうなる可能性を認めながら、2001年の『大国の悲劇』では日本がどこまで中国と張り合うかを見ようとしていた。


いまの北東アジアは経済、人口、技術、そして軍事において中国が圧倒的になったから、ミアシャイマーが著作を根本的に書き換えるとすれば、これも「大国の悲劇」の結果なのだというかもしれないが、中国が(「失われた10年」に迷いこんではいるものの)この地域の秩序形成の中心であることはいまや否定できない。

また、軍事的な側面に着目すれば、日本の核武装の問題が控えていて、おそらくいまだにその議論すらできない日本が、核武装に進むとは思えないので、この点からも日本は中心になれず、北東アジアはアメリカ好みの自由と民主の勢力が秩序の核ではないのである。日本ではミアシャイマーやウォルトを論じるとき、こうした肝心の部分を平和主義的メンタリティでもってスキップする人がいるので注意が必要だろう。実は、アメリカが北東アジアから撤退したら、日本は核武装の問題に直面せざるをえない。いや、それらはセットになっているのだ。


ラックマンのコラムに戻れば、彼の関心はもう少し短期のところにあるようだ。「NATOについて考えれば、アメリカが関与しないとなれば、すくなくとも機能不全となり、悪ければ崩壊してしまうだろう。バックにアメリカが控えていなければイスラエルサウジアラビアはイランを封じ込めることはできない。日本、韓国、フィリピン、オーストラリアも、同じように中国のパワーに直接さらされるだろう」。

たしかにそうなのだが、ラックマンはミアシャイマーやウォルトの基本的な前提を忘れてしまっている。リアリスト一般といってもよいが、秩序の形成をそれぞれの地域に任せるといっても、トラブルが起こりそうなときには、アメリカは「オフショア・バランス(外から介入してバランスをとる)」で関与するのが前提である。リアリストが「世界の警察」から撤退すべきだと言う場合、いまのバイデンように常に何の問題でも中心になって、自由と民主を振りかざして無理やり指導するのはやめるという意味なのである。それはハンス・モーゲンソー、ケネス・ウォルツ、さらにはサミュエル・ハンチントンといった論者たちの議論もそうだった。


したがって、次のようなラックマンの締めくくりは、かなり頓珍漢なものだ、「アメリカの世界からの撤退による影響は、おそらくアメリカ自身は最後に感じることになるだろう。しかし、ポスト1945年世代が考えるには、アメリカ自身も事実上、非民主主義勢力の興隆や拡張主義の勢力には脅威を与えられることになるだろう」。もちろん、アメリカはそうなる以前に、オフショア・バランシングによって介入することになるから、ラックマンが憂慮をもって指摘すべきは、アメリカは情報収集については少しも怠りなく、脅威を感じるのが最後にならないようにするべきだという点にある。

ここで締めくくってもいいのだが、かなり類似した問題が、大英帝国のオフショア・バランシングにも生じた。最盛期だった19世紀にはヨーロッパ大陸で紛争が起こった場合、関与するのは海軍力を動かして威圧し、あるいは経済的なパワーによって、間接的に圧力をかけることが中心的な関与の方法だった。しかし、第1次世界大戦のさいには地上戦に直接参加せざるを得なくなり、エリートを塹壕戦で大量に戦死させ、それが大英帝国の没落を促したといわれた。


この点については膨大な研究があるが、あえて分かりやすいエピソードをあげておくと、むかし、戦略の勉強をすると必ずでてきた「間接的アプローチ」を唱えた戦略家ベイジル・リデル=ハートは、逆に、間接的アプローチを忘れてオフショア・バランシングでない戦争のやり方をしたために大英帝国の衰退を早めたと論じた。これに対して若い世代の戦略家たちは「リデル=ハートは老いた。センチメンタリズムに陥っている」と批判したといわれる。

しかし、これは両面から考えるべき問題で、いかなる大国も帝国も、いつかは衰退する。アメリカの衰退が加速していくならば、同じ問題が生まれる可能性は高い。そのときには、たとえ巧妙な戦略家が存在していたとしても、その総合的なパワーの衰退によって、オフショア・バランシングは効かなくなるだろう。アメリカについてそれが何時なのか、情報収集を怠りなくやっていても、来るときには来るというしかない。