新型コロナウィルスに対する「スウェーデン方式」は、ほぼ失敗だったと考えてよさそうである。もちろん、これからの第2波において集団免疫が0.5%にも達していないと推定される日本では、それゆえに悲惨な死亡率を記録しないとは限らない。しかし、それはこれからの対策しだいで、ある程度、防ぐことは不可能ではない。
念のために述べておくが、スウェーデン方式とは新型コロナウイルスに対してロックダウンとか緊急事態宣言によって、国民の生活や経済活動に制限を加えるような対策を取らない方法である。つまり、感染が広がるのにまかせ、感染の広がりが生み出す集団免疫が「壁」のように、それ以上の感染を防ぐのを待つという政策なのだ。
この方式の欠点は、ロックダウンや緊急事態宣言を行った国よりも感染率および死亡率が高くなることであり、利点としては生活や経済活動に制限を加えずに済むこと、さらに、集団免疫が生まれれば第2波に対する防御が同時に形成されるという点である。
この1週間ほどの報道によれば、このスウェーデン方式が「失敗」したとされる根拠は、同国の新型コロナによる死者が4000人を超えてしまい、約1000万人の人口に対する死亡率が、(世界比較でみればもっとすごいところはあるが)同じような文化と制度をもつ北欧諸国に比べて4倍から10倍とずっと高いことが挙げられる。
しかも、この点が決定的だと思われるが、こうした死亡率を記録していながら、集団免疫が形成されているとはとても思われないことである。スウェーデンが発表したデータによれば、免疫保有率は7.3%であって、集団免疫によって感染が阻止されるとされる60%にはまったく到達できていない。
もちろん、これから北欧のみならず世界を第2波、第3波が襲うことは、ワクチンができない限りほとんど決定的であり、そのときこの7.3%がある程度の「壁」となるということは十分に考えられる。しかし、それではこの4000人以上の死者を出したという政策はどのように評価されることになるのか。
ここで考えておくべきなのは、スウェーデンの新コロナ対策が当初の予測から逸脱してしまった原因は何だったのかということである。実は、同国政府はかなり詳しい「社会的距離」などを推奨するルールのようなものを提示していて、国民はこれをある程度守り、あるいは街に出ることを自粛したのだ。
スウェーデンの都市の街について、マスクもしないで喫茶店で語らう風景などが報道されていたので、それがスウェーデン全体の光景であろうと思いがちだ。しかし、ほかの国の状況がマスコミによって伝えられるなかで、わざわざ運試しのようにそれまでの生活を決然と続ける国民は多くなかったはずである。
しかも、スウェーデンという国はほかの北欧諸国と同じく、人口密度がきわめて低い。たしか、日本の13分の1くらいだったと思う。単純計算すればスウェーデンは日本より接触率は169分の1になるということだ。もちろん、接触するのは街などであって広大な原野みたいなところではないから、こんな計算は成立しないが、ともかく日本の平常時のときに比べれば接触率が最初からかなり低いはずである。ということは、逆説的になるが、この国は免疫の壁が形成されにくい国であるといえるのではないだろうか。
ある論者が、最近の日本は「国民総免疫学者」になってしまったと評したが、これはなかなかのヒットといえる。もともとの免疫理論や、そこで使われるさまざまな前提を知りもしないくせに、日本の対策がだめなのはああだこうだ、あるいは日本の対策が成功しているのはこうだああだと、まるで免疫学者になったようにおしゃべりをする光景を、みごとに皮肉っているといえる。
わたしなども、ケルマック・マッケンドリックのグラフとか接触率とかを、知ったかぶりで紹介してきたので、俄か免疫学者のひとりに数えてもらっても一向にかまわない。しかし、わたしがここで言いたいことは、日本でスウェーデン方式やそれに類似した説を振り回した人のかなりの部分が、その基本となる生と死についての思索を突き詰めていなかったのではないかということである。
たとえば、日本人は戦後、生命至上主義になってしまい、死というものを論じられなくなってしまっているとか、人間の生活というものを真剣に考えられなくなっているとかいうのは、それはそれとして正しい。しかし、生命重視になっているから新型コロナ対策を間違うという推論は、やはり考察の中間項を欠いていて飛躍が大きいだろう。また、生活を真剣に考えないからロックダウンなどしてしまうのだという主張も、正しいようでいて因果関係が倒錯してしまっている。
こうした推論によって、ロックダウンや緊急事態宣言を批判した論者たちの根拠というのは、経済活動を低下させて不況を生み出し、果ては自殺者を数十万人生み出すというものだった。たとえば、それがいっさいの政府による拘束は悪しきものであるとする、リバータリアンによるものなら分からないでもない。また、何でも政府の対策には反対するという反権力主義者の言動なら、肯定はしないが分かりやすい。ところがそれが、まったく逆の立場にある論者たちから発せられたところに、日本でのロックダウン批判の奇妙さがある。
しかし、経済への打撃があるからスウェーデン方式にすべきだという議論は、成立するようでいて、せいぜい塀の上を歩くような危うい綱渡りであろう。経済への打撃と不況の規模をどれほどの期間で比較考量するかによって結論は大きく揺らぐ。ましてや、この経済打撃説をとなえながら、死を考えられなくなっているとか、戦後的な思考だという議論と結び付けているのは、ただの錯乱かご都合主義というしかない。
まず、戦後の生命至上主義への批判のつもりでスウェーデン方式を推奨したとすれば、肝心の死について考えていなかったことになる。まともな、生命至上主義批判が主張してきたのは、生命を至上のものとすることによって、逆に有意義な生を送れなくなってしまうということだった。つまり、人間の生には生命の価値を超えるものがあるということを忘れるべきではないということである。
その裏返しとして、死というものに真剣に向き合うことによって、生を有意義なものにするというのが、こうした生命至上主義批判の中心なのであって、そこにあるのはむしろ有意義な生なのである。俺はいつでも死んで見せるなどと、すごんで見せるのが生命至上主義批判ではない。いずれ、この点をもっと論じるつもりだが、ここではこのくらいにしておこう。
さらに、スウェーデン方式やそれに類する対応を推奨しておきながら、理由が経済が大事だからという論者についても、その倒錯は明らかだ。経済合理性を徹底的に追及していけば、必ずしも規制なしの政策が経済を救うとはいえないことが、すでにアメリカやブラジル、そしてイギリスの例から読み取ることができる。
これらの国では、まさにマッチョにふるまうだけのリーダーが、経済合理性と当面だけの経済偏重との区別がつかなくなり、多くの犠牲者を出してしまうことによって経済そのものまで回復を困難にしている。そして、経済だけでなく社会秩序が激しく揺らいでしまっている。これは偶然ではないのだ。
こうした国ではもっと穏当な政策を行っていれば救えたかもしれない膨大な死者を前にし、国民のモラルとモラールの荒廃がこれからさらに進行していく。生き残った者は目の前の死者たちに、自分たちの不見識や無為によって「有意義な生をおくらせられなかった」という後悔が生まれるのだ。そしてまた、自分も同じように突然コロナにやられて「意義のない死を迎えるのではないか」との恐怖におののくのである。これもまた、その国の経済を停滞させる原因となるだろう。
付記:介護崩壊については、下のリンクの投稿をご覧ください。医療崩壊を防ぐことができたという報道や主張もありますが、単に、老人ホームやナーシングホームに悲惨さを回しただけのことです。そのことはForeign Policy MagazineのSweden's Coronavirus Failure Started Long Before the Pandemicが比較的早く報じていました。
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