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東谷暁による「事件」に対する解釈論

コロナ第2波の前にトリアージを議論すべきだ;「誰を救い、誰をそうしないか」の論理

東京都のコロナ感染が急伸して、なかなか数値が低下しない。もちろん、これはPCR検査を拡大している結果でもあるので、アメリカやブラジルのように死亡率が急進しているのとはまったく意味が異なる。しかし、東京都および政府のコメントが、よく理解できない。新宿の「夜の街」を何とかしたいのか、PCR検査を拡大して日本の免疫率でも算定しておきたいのか、目的がいまひとつはっきりしないのである。

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しかし、いずれにしても第2波はやってくるだろう。それがいまのぶり返しの延長線上のものなのか、あるいは一旦鎮静化してからのものなのかは不明だが、世界的な感染拡大のなかで、日本だけが大きな波に洗われないですませられるとはとても思われない。そのときに、最悪のケースとして医療崩壊的な状況と、それに付随する「トリアージ」にかんしても、さまざまな問題を考えておくことは緊急の課題である。

 すでに「コモドンの空飛ぶ書斎」で取り上げたが、このトリアージとは医療の緊急事態において、患者の治療順位を決める行為である。たとえば、集中治療室がひとつしか空いていないときに、2人以上の患者が集中治療を必要としたら、何を基準にして優先順位を決めるかという難問が、現実のものとなる事態を考えておくべきなのである。

 今回のコロナ・エピデミックの中で、欧米では現実にこの問題に直面したケースが多かったため、議論が再燃するだけでなくさまざまな基準の見直しや再確認がなされている。では、日本の場合はどうかというと、ほんの一部にスウェーデントリアージをほとんどそのまま日本に適応したような提案があったが、それが議論を呼んだという形跡もなかった。専門家会議でも話題にならなかったわけではないらしいが、「それは回避すべきだ」という話で終わっているという。

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毎日新聞より

 

トリアージは回避すべきだというのは、そんなことは子供でも分かることで、この状況にあって「回避すべきだが、それでも論じておくべきだ」というのが正解というべきものだろう。なぜなら、コロナ危機でなくとも、事態が急変してトリアージが回避できなくなるケースはけっして珍しいものではない。それはケースバイケースで解決されてきたが、そこに一定の頼るべき基準は必要だからだ。そして、この問題を論じることで、一般の人間にとっても、生と死について深く考える機会が生まれるからである。

 たとえば、看護学校の学生が読む医療倫理学の教科書には、次のような例が提示されている。ある山間部の病院でのこと。心臓の悪いSさんが3度目の発作を起こしたので、除細動器(不整脈を治療する機器)やアンビューバック(呼吸器)が入っている救急カートを使用していた。ところが、突如、Bさんも2度目の発作を起こしてしまった。救急カートはもう1台あるが、取りに行くには4~5分はかかるところにある。さあ、どうすべきか。

 Sさんは身寄りのない33歳の女性で、最近、2度目の発作が起き、片麻痺に加えて全失禁状態になり、リハビリテーションをしても回復はあまり期待できない状態だった。Bさんは男性の会社員で4人の子供がある。数日前に心筋梗塞を起こして入院したが、合併症もなく、数日後に経皮的冠動脈形成術を受ける予定だった。

 治療の効果はBさんのほうがありそうで、また社会的地位から考えても貢献しているようだ。それに比べてSさんはあまり効果はなさそうで、しかも、社会的地位があるわけではない。では、それだけで治療中のSさんからBさんに医療機器を移すことは許されるだろうか。また、社会的に恵まれないSさんこそ優先されるべきではないかとも思われる。

 この例は医療倫理の教科書では有名なケースらしいのだが、残念ながら答えは書いてない。というのは、この例題はあくまで、さまざまな問題点を指摘して学生に考えさせるケースとして提示されているものだからだ。もちろん、これを読んだ方が判断の根拠を考えながら、自分の判断を下すことが好ましいわけである。

 こうした例題の回答を示すさいに、しばしば持ち出されるのは功利主義的なものの考え方である。たとえば、医療機器を使用すると命を救うことができるのはどちらか、また、両方とも救う可能性が同程度ならばこれから何年生きられるか、というふうに考えていくわけである。さらに、たとえばどちらが社会的貢献が多いかということは、考慮の対象にしてもいいのか。男女の別を考慮したらどうなるのかなども、考えるきっかけにもなっている。先に治療してもらっていた人に優先権があるか否かという問題ももちろん存在している。

 新型コロナ治療の場合、たとえば人工呼吸器が1つしかないときや、あるいは集中治療室が1室しか空いてない場合に、どの患者を優先するかという問題が、今回のコロナ・パンデミックでは実際に起こった(報道された例は「新型コロナの第2波に備える(2)誰を優先治療するかという「トリアージ」の難問」を参照)。

 新型コロナの症状において顕著なのは、若い人は重篤化しにくく、70歳を超えると亡くなる例が圧倒的に多いことから、高齢者か否かが決定的な判断の基準になったことはよく知られている。日本においてスウェーデントリアージを参考に、ガイドライン案を作成したグループも75歳をその境界にしている。これは功利的な考え方、つまり、伝統的な道徳や宗教的な観念にとらわれない基準を示すことに重心が置かれている。

 また、日医総研が翻訳してネット上で読めるようになった英国でのガイドラインなども、明瞭に功利主義的な性格を帯びたもので、何か特別な倫理思想を持っていなくとも、普段の生活での基準に類似した価値観から理解できる。ぎりぎりに追い詰められた状況での基準としては支持が得られやすいものだと思われる。しかし、功利主義によるガイドラインは作り方によっては、とんでもない陥穽が生まれる危険も指摘されてきた。

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朝日新聞より


次は、倫理的な問題に功利主義的な基準を適用したさいに、予期していなかったような解釈がされてしまう例として有名なものである。功利主義者の元祖であるジェレミーベンサムが述べた「最大多数の最大幸福」は、最大多数の個人がもちうる最大の快楽こそ目指すべきものだという意味だが、これを「最大多数の最大生存」と読み替えて次のようなガイドラインを作ったとしよう。

 

 この世では生存率を最大にせよというのが、正義の大原則である。

①最大多数の最大生存という原理が道徳の基礎である。

②行為は生存率の促進に役立つのに比例して正しく、生存率の減少を生み出すのに比例して悪である。

③善とは、生存率の増大と、死亡率の減少とを意味し、悪とは、死亡率の増大と、生存率の喪失とを意味する。

 

このガイドラインでコロナ・パンデミックに対応した場合、先ほどの境界とされる年齢を何歳にするかという問題も統計的には可能なので、まあ、適用可能ではないかと思われる。しかし、たとえばこの「最大多数の最大生存」を、臓器移植全般に適用した場合にはどうなるのか。

 臓器は健康な人の生存中のものが移植の延命には最良であって、したがって、この論理を突き詰めていくと、健康で生存中の若者から10個の臓器を取り出し、臓器が1つ壊死しかけている10人の命を救うのが原則に最もかなっている。もちろん、この若者は10個の内臓を取られて生存できるわけがないが、彼1人の生命が10人の生命を救うのだから、ガイドラインに沿っていて問題はないことになる。

 この話はおかしいと感じる人は多いだろう。もちろん、わたしもおかしいと思う。では、どこがおかしいのか。それは、こうした議論をするさいに、個人にとってそれぞれの生命が、かけがえのないものであるという前提を、確認していないことから起こってしまうのである。しかし、逆にこの前提を入れてしまうと、先ほどのコロナ・パンデミックのさいに犠牲になる患者の生命は、かけがえのないものではなかったのかという矛盾が生じる。

 この例題は応用倫理学で「サバイバル・ロッタリー」つまり「生存のくじ引き」と呼ばれるものらしい。応用倫理学というのは、こういう話ばかりが出てくるので、よっぽど人の悪い人間がこの分野に集まるのだろうと思えてくるが、それではこの問題に解決法がないかといえば、ちゃんとあるのである。

 たとえば、この若者が自分の意志で、自分の生命をささげて10人の命を救うのだとすればどうだろうか。つまり、「自己決定の権利」を行使したのだということにすれば、問題ないじゃないかというわけだ。実はこれでも、残念ながら多くの問題が新たに生まれてきてしまうのである。

 たとえば、これは一種の自殺だから、キリスト教徒にとっては許されるのかという問題がある。また、自己決定の権利を行使せよという強制が行われるのを、阻止できないのではないかという疑いが生まれる。そして、実は臓器売買という闇の市場があることを思い出せば、この自己決定の権利行使が悪用されていることが明らかなのである。

 もちろん、こうした自己決定の権利が発揮されるさい、ちゃんと証人を何人か用意することによって、特定の目的、つまり、自分ではない他人の生命を救う目的のために臓器を与えたり、集中治療室の優先権を他人に与えることが可能だろう。証人には家族と担当医師に頼めば、まず、間違ったことにはならないというのが前提となっている。

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medpagetodayのサイトより

 

ここでも、大きな問題が横たわっている。たとえば、自己決定をしたのが50歳だったが、75歳になったら優先権を譲るのが嫌になったという人もいるだろう。透析中止を自己決定で認めたのに、中止されてから後悔したが、手遅れになった事件も記憶に新しい。だから、そのことを宣言した「事前指示書」は、しょっちゅう書き直すことが前提なのである。

 また、認知症のために介護施設に入っている場合には、こうした自己決定はどのように評価されるべきかという問題もある。介護施設職員のための参考書には、決定の基準は①本人(入園者)の意思、②家族を通じた本人の意思、③家族の意向、④スタッフの意向(本人のためによかれと考える)、の順序になっているが、親を預けた経験からいうと、いつのまにか④が①になっていることもある。

 また、高齢者は長生きしようとは思っていないものだなどと断言する医療関係者がいるが、こういう話はにわかには信じられない。入院あるいは入園している高齢者は、その施設の職員やスタッフに対して、きわめて従順になっていることが多い。とくに、医療関係者がカリスマ的な人物のときには、その人物の意に沿った発言をしやすくなる可能性がきわめて高い。

 こうした問題を回避するために、ともかく人間には絶対的な価値があるとする思想を前提とすべきだと考える人もいる。これはカントの倫理学に根ざした「人格の尊厳」に淵源を持つことになるが、こちらは実はきわめて「使いにくい」。というのも、カントは人間は目的だとしたので、その人間を手段として使うことは、いっさいできないからだ。これはたとえば、宗教的な「生命の尊厳」「肉体の不可侵」を前提としたときも同じ問題が起こってくる。

 いっぽう、「自己決定の権利」ならどうなのか。こちらは、功利主義者であるJ・S・ミルが提唱したもので、近代自由主義の「他人に迷惑が掛からない限り、何をしてもよい。たとえ、それが自分を傷つけることであっても」の範囲内に入ってくるので、自己決定そのものに多くの問題は残るが(たとえば、自己決定はどの程度可能か、さらには、そもそも自己決定というものが可能なのか)、ずっと「使いやすい」ことになる。

 したがって、コロナ・パンデミックのさいのトリアージを支持している国のガイドラインは、これまで述べてきたような理由で、たいがいは功利主義的な考え方に基づいて組み立てられている。ただし、スウェーデンのように、国家が医療を引き受けたうえで、ほぼ完全に専門家に丸投げしている場合には、功利主義的な選択を行いながら、「自己決定の権利」に配慮することなく、法制的にテクノクラートトリアージを判断するようになっている。

この場合、テクノクラシーが十分な資源を支配し、良好に機能しているときには目覚ましい成果をあげるが、いったん資源が急減したり、組織の硬直化や腐敗が起こると、眼も当てられない障害が起こりやすくなる。今回のスウェーデンの介護崩壊と高齢者の大量死去などは、まさにテクノクラシーの欠陥が露呈したケースと思われる。

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アメリカのある病院で使われたトリアージの流れ図


それに対して、功利主義的なプロセスに加えて、個人の自己決定の権利を導入して、患者と医師との事前の会話を重視する場合や、文書のかたちで事前指示書を作成することを奨励することで乗り切ろうとする国もある。英国、スイス、オーストラリアの場合のトリアージの仕組みはそれに近い。わたしの趣味からすれば、こうした制度のほうが文明としてのリダンダンシーを備えている分だけましであり、ある程度の説得力もあると思われる(前出「新型コロナの第2波に備える(2)誰を優先治療するかという「トリアージ」の難問」でも述べた)。

とはいえ、医療資源の希少性から生まれる危機において、こうした功利主義によって切り抜けようとするのは、あくまで危機対応であることを忘れるべきではない。それは人間の生命を比較衡量できるものに置き換えるという、きわめて危ういプロセスが、どのようにリダンダンシーを加えようとも、存在しているからである。このとき適用外とされる価値観には、人間の尊厳とか生命の絶対性といったものだけでなく、普段、医療が当然としてきた基準も除外される。

たとえば、医療は「短期」を前提としており、「中長期」で判断しているわけではない。「長期的には我々は皆死んでしまう」という認識は正しいが医療では採用しない。なぜなら、こうした認識を重視してしまえば、多くの医療行為がむなしいものになってしまうからだ。しかし、トリアージは短期の行為を留保することを意味するのである。

 なかには、これからコロナの第2波に備えるのだから、緊急事態的なものになっても仕方ないとして、政府あるいはテクノクラシー主導で素早く法制化できるほうがいいと考える人がいるかもしれない。しかし、冒頭でも述べたように、実は、この問題はいかなる論理を組み立てるかという点で、脳死問題や安楽死問題でもさんざん議論されてきて、明瞭な輪郭を与えないままで放置してきたものである。

 つまりは、ほったらかしておいても、これまでは個々のケースの解決法として論じられることが多く、圧倒的な量をともなった国民的問題にならなかっただけのことだ。真剣に議論するなら今であり、急を要するから政治優先でごまかそうと考えれば考えるほど、国民が納得できる議論への道は遠ざかるだけである。

 

【参考にした本と論文】

服部健司・伊東隆雄編著『医療倫理学のABC』メヂカルフレンド社

箕岡真子・稲葉一人『わかりやすい倫理』株式会社ワールドプランニング

加藤尚武『現代倫理学入門』講談社学術文庫

田中美穂・児玉聡『諸外国におけるCOVID-19関連のアドバンス・ケア・プランニングの概況』日医総研

 

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