「自国が発行する通貨なら、国家は無制限に発行できる。したがって、財政赤字がどれくらいになったかに関係なく、国家は完全雇用を実現し、社会保障を拡大することができる。デフォルト(国債の償還停止)など起るわけがない」
こんなことを言われたら、財政赤字の解消のために増税をするといわれ、消費税引き上げも素直に受け入れてきた日本国民は、そんな夢みたいなことはあり得ない、この人はペテン師ではないのかと思うだろう。もし、そういう経済学者や経済評論家がいれば、自分の名を売るため敢えてインチキを述べたてているのだろうと勘ぐるかもしれない。
ところが、このところ、そのペテン的でインチキ風なことを主張するMMT(現代貨幣理論)が世界的な流行を見せている。もうすでに、新聞やテレビでも概要を読んだことがある人は多いだろうし、インターネット上(ブロゴスフィアというらしいが)では、おなじみの理論であって、とっくに反対派を撃破したというブロガーも少なくない。
このMMTの指導的米経済学者であるL・ランダル・レイなどは、ショーペンハウアーの言葉を引用して、「最初はバカにされ、次に激しく反対され、そしていまや絶賛されている」などと、ちょっとばかり気の早い勝利宣言をしているほどなのだ。
もともとは、ケインズ経済学左派であるポスト・ケインジアンや異端の経済学者ミンスキーの系譜を引く完全雇用のための議論だったが、前述のレイやオーストラリアの経済学者ウィリアム(ビル)・ミッチェルが反対派と論争を重ねながら骨組みを構築し、少し前にはMMTに基づく分厚いマクロ経済学の教科書まで刊行している。
レイは自分の入門書(プリマーと呼んでいる)に、20年間もの努力をへて確立されてきた理論だと述べているが、彼らの理論が急速に台頭してきた背景には、やはり、2008年のリーマンショックとそれ以降の雇用市場の停滞や激しい非正規化があった。そしてまた、さらに進展する経済の金融化も大きいというべきだろう。
MMTの主張は冒頭にまとめたことに尽きるといってよいが、それに疑問をもった反対派(MMT派は主流派とかネオ・リベ派と呼んでいる)との論争は、なかなか複雑な問題を炙り出すようになった。というより、もともと複雑な問題があったのに、彼らの提言があまりにシンプルにまとめられてプロパガンダされたせいでもある。
論争はいまも続いている。MMTの「税金を徴収する以前に、政府は通貨を国内に供給していなければならない」「政府の支出は国民の資産」などの主張を、反対派のひとつであるオーストリア派が「MMTは経済の仕組みを、まったく転倒した世界観で論じている」と批判したときには、「いや、我々は地動説であって、これまでの経済学が天動説だったんだ」と反論した。
アメリカのリベラル左派である経済学者ポール・クルーグマンが「政府の支出を増やすことに文句はないが、MMTのやり方だと高インフレをまねきやすい」と指摘したのに対しては、インフレが始まったら増税をすればインフレは防げると切り捨て、クルーグマンをネオ・リベ派(!)と呼んでからかった。
彼らの経済理論については、「MMTの懐疑的入門」と題して「コモドンの空飛ぶ書斎」のほうで連載するつもりだが、興味深いのはMMTの大きな根拠が、いまの日本経済だということである。ひとつは、もちろん、財政赤字が対GDP比200%を超えてもインフレが起きないこと。もうひとつは、通貨のコントロールによりインフレを起こすとの触れ込みで採用された「インフレターゲット政策」の失敗である。
当然のことながら、インフレターゲット論に批判的で、さらなる財政出動を主張していた経済評論家たちは、このMMTに飛びついた。例によって、レイやミッチェル、さらには米大統領選に出そうな、民主的社会主義者バニー・サンダースの経済顧問ステファニー・ケルトンたちの主張を手早く輸入している。
しかし、これも例によってだが、日本の思想的輸入業者の常として、それまでの自分たちの思想との整合性や連続性は、あんまり考えていないようだ。かつては日本国民の金融資産のなかの国債に回されていない300兆円をぶち込めば、日本経済は立ち直るといっていた論者が、MMTの理論に飛びついて「政府発行の通貨はいくらでも可能なので、別に国債を通じて資金を集める必要はない」との議論に賛同している。
また、元来、MMTは欧米の高い失業率を前提に、完全雇用を実現するための理論として国家が雇用に責任を持つべきなのだと主張していたわけだが、日本のMMT派はいくらでも通貨を発行できるのだから、それで好きなことができると主張している。しかし、日本の雇用は失業率が2%台まで下がっているのだから、雇用に課題があるとすれば非正規雇用の縮小だが、どうもハコモノや土木の話ばかりが優勢なのである。
さらに、これは気になることだが、どこまでMMTを理解してのことか知らないが、「これまでデフォルトを起こした国はなかった」「専門の経済学者に、デフォルトはあったんですかと聞いたら、黙っていた」などと論じて、これまでも世界でデフォルトがなかったかのように論じている者すらいる。
しかし、レイは「デフォルト(政治的理由以外の)は起きていない」と書いているのであって(こういう書き方も大いに問題だが)、そもそも、先制的にデフォルトを宣言する、あるいは特別な措置を投資家たちに呼びかけるのは、政治的理由以外のなにものでもないのであり、この世にデフォルトが存在しなかったわけではないのだ。
そもそも、日本のMMT派に転じた論者たちは、かつてはオールド・ケインジアン的な議論をしていて、総需要と総供給の需給ギャップが大きいから財政支出をためらうなといっていたが、この2年ほどで需給ギャップが解消されるどころか、需要のほうが多くなってしまった。それなのに、まだ彼らは財政支出の大幅拡大に未練があるらしく、こんどは需給ギャップなんか関係ないMMTを採用することにしたようだ。つまり、野放図な財政支出が目的であって、ほんとうは理論なんかどうでもいいらしいのである。
興味深いのは、リベラル左派のクルーグマンが「ネオ・リベ」に見えてしまうほど左っぽい社会主義者のMMTであるというのに、ヨーロッパの明らかに右派で民族主義的なポピュリストたちがMMTに目をつけていることである。明らかにご都合主義的な話で、労働者に雇用を与えられれば何でもいい、あるいは、失業者の票を得られればなんでもいいという、無思想でニヒルな傾向が顕著である。
こういう無思想かつニヒルな傾向は、日本のMMT派にも見え隠れしている。MMTの実践について論じるときは、どこか温和でヒューマンで、考え方をちょっと転換すれば、日本は豊かな社会になれるというような書き方をしているものもある。しかし、本気でMMTを政府に採用させるとなれば、政府の構造自体を変える必要があるはずだ。
ところが、これはレイが入門書で述べていることだが、MMTによる経済政策を実行するには、別に大きな政府でも小さな政府でも関係なく、先進国でも途上国でも何とかなるというのだ。これは、あまりに楽観的かつ欺瞞的ではないのだろうか。
「さあ、いっしょにお金をつかって、おたがいに面倒を見合うことにしよう。……アメリカのような豊かな国は……他国を助けるのは義務なんだ。それはわれわれをよい人間にする。それは国家を良くすることができる。さあ、いっしょに良き世界をつくろう」(L.R.レイ『現代貨幣理論』2版の締め括り)
ひっくり返った世界像とともに、なんだかジョージ・オーウェルの『1986』に出てくる、ひっくり返った標語を読んでいるような気になる。本当にこんな甘っちょろい考えで、この世界が変えられると思っているとしたら、MMTは単なるカルトの教典であろう。MMTを実行に移すには、多くの抵抗を打破するだけでなく、まず国民にさまざまな新しい制度や指標を強制する、堅固な国家を必要とするはずである。
もうひとりの理論的指導者であるミッチェルの本のタイトルは『国家の再生』というのだが、こっちのタイトルのほうが彼らの「野望」にふさわしい。この野望が達成された例はすでにある。中国とかロシア、そして歴史上の独裁国家における経済制度を振り返ればよい。もちろん、私は今のところ、彼らの国家で暮らしたいとは思っていないのだが。