すでに知られるようになったことだが、自国通貨を持つ国家ならば、いくら政府支出を増やしても破綻することはないと主張するMMT(現代貨幣理論)が、根拠としてきたひとつの現象は日本経済である。
日本経済はすでに政府の負債が対GDP比で200%を超えたというのに、いまだにハイパーインフレの兆候すらみえず、それどころかインフレターゲット政策にもかかわらず2%のインフレ目標すら達成していない。それは、いわゆる主流派の経済学が使ってきた経済モデルが間違っていたからで、MMTのモデルで考えれば当然のことだというわけである。
MMT派の経済学者が日本経済に着目するだけでなく、IMFなども日本経済の持続性について言及して、比較的高い評価を与えたことから、「日本経済って、ほんとうはすごかったんじゃないのか」と思うようになった人は多いようである。
では、MMT理論家(もちろん米豪の)が日本経済を根拠とするさい、日本の財政システムと低インフレの原因などについて、詳細に研究してきたかというと、ちょっと違うのではないかと思われる。
わたしが読んだ限りでは、「ジャパン・ケース・スタディ」があるのはMMT派の論文集である『政府支出 現代貨幣理論と実践:ひとつの入門テキスト』のなかの「マクロ経済学をどう考えどう実践するか」という論文だが、データはグラフ化して提示されているものの、日本独特の構造や経緯については、はなはだ不満というしかない。
最近刊行されたMMT派の教科書『マクロ経済学』ではどうかというと、(期待していたのだけれど)なんと、上の論文のほとんどコピペだった。まあ、編著である教科書というのはそういうものだから、しかたないといえばしかたないが、いちおうは大きな「根拠」なのだから、もっと別のやり方があってよかったのにと思った。
では、日本のMMT派の場合はどうか。当然、「地元」なのだから読者にとって状況はずっとましである。いや、きわめて興味深い学習ができるのである。まず、下に転記した引用をみていただきたい。すぐに意味が分からなくてもかまわないから、ざっと目でおいかけていだだきたい。
「①銀行が国債(新発債)を購入すると、銀行保有の日銀当座預金は、政府が開設する日銀当座預金勘定に振りかえられる、②政府は、たとえば公共事業の発注にあたり、請負企業に政府小切手によってその代金を支払う、③企業は、政府小切手を自己の取引銀行に持ち込み、代金の取立を依頼する、④取立を依頼された銀行は、それに相当する金額を口座に記帳する(ここで新たな民間預金が生まれる)と同時に、代金の取立を日本銀行に依頼する、⑤この結果、政府保有の日銀当座預金(これは国債の銀行への売却によって入手されたものである)が、銀行が開設する日銀当座預金勘定に振りかえられる、⑥銀行は戻ってきた日銀当座預金でふたたび国債を(新発債)を購入することができる、⑦したがって、銀行の国債消化ないし購入能力は、日本銀行による銀行にたいする当座預金の供給の仕振りによって規定されている」「……この過程は原理的には無限に続きうる」
この文章(あるいは類似の文章)を、ネット上でご覧になった方は多いかと思われる。要するに、いまや日銀は政府に政策のための資金を提供し、そのいっぽうで民間銀行に新規国債を購入する資金を供給し続けているといっているわけだ。そしてそれは、原理的には無限に続けることが可能だというのである。
これはマルクス経済学者(と本人が言っている)の建部正義氏の「国債問題と内生的貨幣供給理論」という論文のなかの一節であって、MMTも採用している「内生的貨幣供給理論」(別に特別新しいものではない)をもちいて、黒田日銀の量的緩和がどのような構造と意味をもっているかを分析した出色の(と言ってよい)論文である。
日本のMMT派がこの文章を引用して自らの議論の根拠としてきたように、この論文はいま行なわれている日本の量的緩和と財政支出の接続した構造を見事にとらえている。そこで、この部分は繰り返し引用され、いつの間にかネット上では誰が書いたのか分からないようになっているが、おそらく最初に引用した人はちゃんと著者とその見解を記載していたことだろう。
ただし、いまネット上でこの論文の一部を引用したり解説している人たちが、いつの間にか忘れてしまった、あるいは最初から勘違いしていることがある。この原文を書いた建部氏はMMT派でもなければ、また、アベノミクス派でもない。それどころか、この金融政策と財政政策の奇妙な統合を激しく批判し、この政策によって日本の財政はますます破綻の危険度を高めていると警鐘を鳴らしているのである。
いまの日本の金融と財政の仕組みは、アメリカでバーナンキFRB元議長が導入した「マネタイゼーション」のレベルを超えてしまい、タブーとされてきた「日銀による国債の直接引き受け」そのものといえると建部氏は憤っている。引用部分の「この過程は原理的には無限に続きうる」という言葉も、だから「無限に続けよう」ではなく、「そんなことをしていたら取り返しがつかなくなる」という意味なのだ。
結局、内生的貨幣供給理論を採用しているのはMMTだとか、日本の財政はまったく危険がなくなったなどとは、容易には言えないという現実をこの論文は示唆している。と同時に、MMTが証明したということになっている「自国の通貨であれば、原理的に無限に支出できるし、それは財政破綻などもたらさない」という認識は、まだしっかりとした根拠をもたないのではないか、という懐疑を抱かせるに十分である。
すでに述べたように、MMT派が断じてみせているいくつもの主張は、たとえば「デフォルトは起こっていない」(正確には「デフォルトは(政治的なもの以外は)起っていない」)のように、必ずしも注意深い検討をへていないものが混じっている。また、MMT理論家による日本経済の分析は決して十分なものではない(これから、このブログや「コモドンの空飛ぶ書斎」で試みるつもりだが)。
日本のMMT派を含めて、MMTの理論家たちというのは、過度に政治化してしまっている。完全雇用とか充分な社会保障とか、さらには不況で就職できない若者をなくするとか(日本の軍備を充実させるという話もあったが、いつのまにか消えたようである)。目的が理想主義に走っているから、いっていることの根拠が彼らの倫理観(もしくは彼らの政治的野心)にあり、そのため議論の詰めが甘く、場合によればいい加減なのである。
アメリカのバニー・サンダース上院議員の経済顧問ステファニー・ケルトンなどは、もともと政治家志望で(別に悪いことではないが)、それに挫折したゆえに経済学者に転じたというだけあって、当面の言論戦にきわめて長けているように見える。しかし、たとえば、日本経済をMMTの根拠としているのが、日本経済がうまくいっていると信じているからだとすれば、日本経済の現実と国民の実感がさっぱり分かっていないと言わざるを得ない。
この種の矛盾は日本のMMT派の政治家にもいえることで、「すでに日本はMMTにもとづいて金融と財政をやってきたといえる」と発言するのは本人の自由だが、そうすると困ったことにならないだろうか。いまのアベノミクス(の欠点)を是正するためMMTの採用を主張しているつもりだったとしても、もうすでに事実上採用していたのだとすれば、改めてMMTを主張する必要などなくなってしまうだろう。
ましてや、前出の建部氏による日本における金融と財政の統合についての考察が、くりかえし引用されるに値するほど正鵠を射ているものであり、同時に内生的貨幣供給理論からみても依然として危険きわまりないのだとすれば、単に日本に自殺的政策を勧めていることになってしまうのではないのだろうか。