デフォルトとインフレについて、定義も条件もなしに論じる傾向があることは、すでに述べた(デフォルトとインフレ:定義なしのデタラメ論議)。今回はハイパーインフレと財政赤字について、すでに忘れ去られた、あるいは故意に忘れたことにされている研究について「発掘」しておきたい。
取り上げるのは2つの研究である。前者はハイパーインフレについてのもので、一時はハイパーインフレの再来を煽るさいに、必ずのように典拠とされたが、条件があまりに特殊で、しかも理論的に過去のものとされ、最近、見かけなくなった。もうひとつは財政赤字が経済全体にどのような影響を与えるかを統計的に検討したものだったが、データの処理を誤って、学界とジャーナリズムに激しい糾弾を浴び、その後、言及するのはタブーになったシロモノである。
まず、トーマス・サージェントの「四大インフレーションの終焉」を見ておこう。経済学史に詳しい人ならば、この経済学者が「合理的期待」と呼ばれる学説を、ロバート・ルーカスなどとともに担った研究者であり、この論文も「期待(expectation)」がインフレにどのように作用するかがテーマとされている。
しかし、ここではサージェントが、何をどのように論じているかをなぞることによって、いまでもある程度の確度をもって参考にできることはないか、検討してみたい。サージェントが取り上げたのは、第1次世界大戦後のオーストリア、ハンガリー、ポーランド、そしてドイツ(ワイマール共和国)の例である。
この4つの国はいずれも金本位制から離脱しており(不換通貨であり)、大戦においては敗戦国となり、戦後に激しいインフレを経験した。オーストリアは1921年から24年にかけて242倍を超え、ハンガリーは1922年から24年にかけて263倍、ポーランドは1921年から24年にかけて9600倍を超え、ドイツはマルクをレンテンマルクに切り替えるさいに1兆倍のレートを設定した。
こうしてみると大インフレといってもかなりの幅があるわけで、そのことは十分に踏まえなくてはならないが、いずれの場合でもいくつかの条件が整うことによって、この大インフレは急速に終息したのである。その条件とは、①戦勝国側との賠償問題で、ある程度現実的な妥協の見通しが生まれた、②金本位にはすぐには戻れなかったが、大国の通貨(ドルかポンド)にペグ(特定の通貨と固定相場にする)した、③中央銀行の制度を変えて、国債の直接引き受けをいっさい停止した。
サージェントはこうした条件が整ったことで、将来に対する期待が安定して、自国通貨への信頼が回復したと論じている。①の条件は大きかったと思われるが、近年、ハイパーインフレ論が引っ張りだされるときには、②と③の条件が強調された。いまでも、途上国の多くはドルに事実上ペグしている国が多いし、中国は戦略的にドルペグを続けている。また、中央銀行と政府との分離が大きな要素として論じられるさいにも、サージェントの指摘は大きかったのである。
もちろん、これは「戦争だったんだから」として例外に入れるのは、それほど異常な行為ではないだろう。しかし、ここでの教訓はいったん信用を失った通貨が、信用を回復するさいに外部の「信用」を使わざるを得ないということである。自国の通貨が不安定になったときに、他の通貨の信用にすがりつくというのはいまも多いし、不換通貨はその国にとって目指す到達点であっても、実際には基軸通貨とのレートを重視しているのが事実である。これは、いまも国際的な基軸通貨など存在ぜず、あるのは(あるべきは)ソブリン・カレンシー(自国通貨)だけだという主張が、いかに危うい願望であるかを思い出すさいに生きてくる経験である。
順序が逆になったが、この論文は、中央銀行と政府との分離について、とめどなく中央銀行が国債を直接引き受けした場合、結局はインフレの条件を整えることになるという因果関係を、ややゆるい背理法よって証明しようとしている。もちろん、これも「戦争だったのだから」という議論は成り立つにしても、「主権国家にデフォルトはありえない」式の主張、つまり「これまでも統合政府だったのだから、統合政府がインフレを起こすとはいえない」といった主張は、この場合も成り立たない。
また、事実上、すでに中央銀行と政府との関係は「統合政府」を形成しているから、国債の直接引き受けはもう行なわれているという主張と、国民が寄せている中央銀行への漠然とした信頼感とは同じものではないという、もうひとつの否定しがたい現実を思い出すための事例ともなりうる。つまり、現実の政策がどのような「フィクション」で支えられているかという、複雑な問題である。失って初めて分かる「制度的な信頼」といえるかもしれない。
もうひとつ、あまりサージェントが強調していないように見えるのだが、あるいはサージェント論文を念頭にハイパーインフレ論を扇動した人たちが指摘しないことだが、ハイパーインフレが生まれるのは「モノが高くなる」というよりは、「通貨が安くなる」あるいは「通貨が無価値になる」という側面のほうがずっと大きいということである。
東日本大震災のさい、被災地の生産が滞るからハイパーインフレの可能性が高まったと主張したエコノミストが少なくとも2人いた。それは生産の場を日本国内の別の地域や海外に移せるかの問題で、たぶん起こらないだろうとわたしは書いたが、結果として間違っていなかった。本物のハイパーインフレでは、モノというよりは通貨のほうが予測もしなかった異常な動きを見せる。
サージェントはとくにドイツでマルクが途中からもはや使われなくなり、代替的な証券や外国通貨が使われるようになって、インフレがハイパーインフレへと変貌していった過程を記述している。これは最近、文化人類学者がジンバブエのフィールドワークでも報告していることで、信頼の崩壊は徐々に進んで、ある時点からほとんど消滅してしまうのである。これはどこに「閾値」があるかという問題でもあり、いまのところ不確定というしかないが、現在のようなハイパー情報社会においては、あんがい低いかもしれないのである。
さて、もうひとつの忘れられた研究は、カーメン・ラインハートとケネス・ロゴフの「今度こそ違う」論である。この2人の名前が出てきただけで「なんだ、あのペテン師たちか」と思った人がいるかもしれないが、大筋、2人がトンデモ論文を書いたのはエクセルの操作ミスと、(こちらが大きいが)そのデータと結果の間のチェックを怠ったことである。自分たちの論文が、目指す結果以上の結論に達したので、舞い上がってしまったのだろう。
彼らが2010年に発表した政府負債と経済成長率との関係を論じた「負債のある場合の成長」では、「政府負債が対GDP比で90%を超えると成長率は3.2%からマイナス0.1%まで下がる」となっていたが、2013年になって一大学院生が「この論文にはデータの扱いに間違いがあって、正しくは2.2%まで下がる」であると指摘して大騒動になった。
この論文には、特殊すぎるケースを入れてしまっているし、また、平均値の取り方がおかしいとの批判もあった。この指摘について、ラインハートとロゴフはニューヨークタイムズ紙に共同論文を書いて大筋を認めたが、批判の火の手は収まらず延々と続いた。間違うほうが悪いが、これは米共和党系の経済学者たちの財政タカ派に対して、米民主党系の財政ハト派による政治的攻撃という側面もあったせいである。
ところが、日本でも2人の間違い発見を、我が発見のようにはしゃいでいた評論家もいて、ことあるたびに指摘しているので、なんだかヒステリックな感じがして読むのが嫌になった。おかげで、ラインハートとロゴフの古本がやたらと安くなって買ってみる気にもなったのだが、この騒動は政府負債をどのように論じるべきかという肝心の点をどこかに放り出し、何も心配する必要がないという、あきれた夢のような話でも通用する雰囲気になってしまった。
その後、ラインハートとロゴフはヴィンセント・ロゴフを加えて、改定版を発表しているが、それによると「負債が90%を超えると2.3%の成長率に下落し、それはそうでない場合の3.5%に比べて1.2%の低下ということになる」と述べている。まあ、この10年を見れば、欧米が2~3%の成長をしているとき、日本は0~1.0%台だったのだから、当たらずとも遠からずだろう。
しかし、ラインハートとロゴフの仕事で注目しておきたいのは、先ほどあげた『今度こそ違う』(邦訳:国家は破綻する)で、この邦題が物欲しげなのが気になるが、経済問題で「今度こそ(新技術が生まれたので)違う」とか「今度こそ(新しい経済学が生まれたので)違う」というメンタリティを批判していることである。
この本は別に計算の間違いを指摘されていないので、そのつもりで読んでいただきたいが、2人はこの本の読みどころを第三部「国内債務とデフォルトの忘れられた歴史」であると述べている。「国内債務(多くは自国通貨建て)のデフォルトについて発生年と期間を確定したことは、これまでにない試みであった」という。そしてまた、この第三部を読んでいくと、国内債務が急伸するのは、自国通貨が下落しているために、国外からの資金に頼れなくなったからであり、危機が高まった証拠であると示唆している。
もちろん、いまの日本政府の負債が、途上国の国内負債危機のような状態にあると思っているわけではない。しかし、9割以上を国内消化している日本の国債が、好ましいファイナンスをしていると思うのは間違いである。いまの日本国債はすでに利回りがゼロなのだから国債市場では売れないことを意味しており、買う投資家がいても、それは優良な国債だからではなく、儲からないがポートフォリオに組んでおいても、いまなら大丈夫だと思われているにすぎない。(また、このゼロあるいはマイナスの利回りは、もし、市場が正しく機能しているとするなら、将来の日本経済がもうだめだということの信号でもあるのだが、ある評論家は「いくらでも国債が売れることになった」と興奮して主張していたのには本当に驚いた)。
わたしは「ミクロ経済学を基礎にしたマクロ経済学」のG・マンキューによる経済学教科書を読んだことがあったこともあり、日本政府の負債が100%を超えたころにも、それほどの危機感を持たなかった。また、1990年代の危機のさいに財政出動を提案した官庁エコノミストは、この教科書を根拠のひとつとしていた。読んだ方はご存じのように、マンキューの教科書には「財政赤字の結果は何か」について、実は「分かっていない」と書いてあったのである。
もちろん、マンキューはニュー・ケインジアンに分類されるから、財政赤字が拡大していくことには新古典派に比べて寛容だろうが、それでも「分からない」というのは正直なものだと思った。(その後、日本の経済学者に取材して歩いた時期があったが、財政学者を名乗っている人は「もう、危ない」というのに、いっぽうケインズ派に取材すれば「200%にでもなれば分からないけど、いまは大丈夫」というのだった。しかし、200%を超えたあたりでケインズ派もハッキリしなくなった。実は、「分からない」というのが本音なのだろう)。
ラインハートとロゴフの事件のさい、米民主党系の経済学者で財務長官を歴任したラリー・サマーズが2人の失態をいちおうは批判しながら、次のように付け加えているのは妥当だろうと思えた。「債務がこの水準を超えれば自動的に破滅するという閾値はないのかもしれないが、英国やアメリカの経験は、需給ギャップがマイナスで金利がゼロに近い経済での財政引き締めは、きわめて危険であることを示している。しかし、だからといって無制限に債務を蓄積してもいいという考え方は大きな間違いだろう」
アメリカの共和党系の経済学は、財政赤字に悲観的であることはたしかだが、民主党系経済学ですら、いくら負債が膨らんでもいいとは言わない。それは直感や常識に訴えるしかないのかどうかは、もう少し検討を要するかもしれない。しかし、いくらでも自国通貨建てなら国債発行できるという新理論(いま評判のMMTについては、「コモドンの空飛ぶ書斎」で「MMTの懐疑的入門」を連載中)に飛びついて、夢見心地で邁進して「今度こそ違う」と思っても、何かをきっかけに夢から覚めたとき、直面する課題はもっと重くなっているだろう。