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東谷暁による「事件」に対する解釈論

ポスト・コロナ社会はどうなる(1)仕事と娯楽の「あり方」は大きく変わらない

感染症流行が過ぎ去ったのちに、世界はどんな変貌をとげているのだろうか。目の前の新型コロナウイルスの蔓延も阻止できないのに、そんなことを考えても仕方がないと思う人がいるかもしれない。しかし、目の前の新型コロナ蔓延を克服するにしても、その後の世界を想定しないで資源や知恵を投入するのは、無駄や危険を拡大することになってしまう。 

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ここでは、テレワーク拡大の視点、経済構造変化の視点、そして人間の意識の視点から考えてみたい。もちろん、それほど厳密なものではなくて、今時点で誰もが手にできる情報レベルからの推測にすぎないことは断っておきたい。

 まず、テレワークだが、あるデータによると、4月4日現在で日本の企業のテレワーク実績は5%台に過ぎないという。これからさらに努力を重ねても、20%台になるのが精一杯ではないかと指摘する人もいる。

 たしかに、5%というのは少ないと思うが、別のデータでは13%台、さらに20%になればかなりのことではないかと思う。1980年にアルビン・トフラーという未来学者が『第三の波』という本を書いてテレワークについて予言したとき、世界中はその大胆な予想に驚いたものだ。仕事というのは会社でやるものと思いこんでいたのだ。

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では、このときトフラーはどれくらいの割合がテレワークになると予想していたのだろうか。意外に思う人も多いと思うが、約1割くらい、多くとも2割だったのである。しかも、20年から30年かけてである。それでもトフラーは、これだけのテレワークが可能になれば、社会と経済に巨大な変化が生まれると語っていた。たとえば、アメリカで問題になっていたハイウェーの渋滞は、かなり解消すると予測していた。

 このトフラーの説がもてはやされていたころ、ジョン・ネイスビッツが「ハイタッチ」という概念を提示して、人間社会が通信で劇的な変化を遂げるという考え方に異を唱えた。ここでいうハイタッチとは、手を高いところで触れあうという意味ではなく、濃厚な接触、もしくはエモーショナルなコミュニケーションのことである。特にアミューズメントの在り方が、劇的に変わってしまうという説は間違いだといった。「人びとは将来も映画館に集まるだろう。彼らは自宅でブラウン管で映画を観ることもあるが、それだけでは満足できない。人間は暗い空間でともに笑いともに泣きたくて映画館にくるのである」。

 テレビが急速に普及したとき、映画は滅びるだろうという予想がなされた。しかし、それは部分的なものにとどまった。テレビドラマは映画ほど手をかけていないからだという説もあるが、それだけではないだろう。舞台演劇と映画とが似てはいるが共存するように、テレビドラマと映画も共存するようになったのである。

 映画や舞台芸術に比べて、ビジネスというものは人間の微妙な情緒や感情に訴える部分が少ないので、テレワークがいったん普及していったら、もっと急速に普及する可能性を秘めていると考えるのにも理はある。しかし、ビジネスには果たして情緒や感情が含まれていないのだろうか。

 1980年代、ある日本の自動車メーカーが本社ビルを立て直したが、そのさいに大手コンピューター会社が参加して、それまでになかったようなテレビ会議のための装置を設置したことがあった。時代を先取りした試みとして注目されたが、しばらくして同社の役員や社員はあまり使っていないことが分かった。「やっぱり、会議というのは顔を突き合わせてやらないと、本気になれない」というのが、当時の不人気の理由だった。

 2000年ころにはIT革命の煽りを受けて、インターネットで連絡し合えば会議は必要なくなると唱える経済学者が注目された。ともかく、これまで組織や流通のなかで「中間的」な役割を果たしていた制度、装置、人材はすべて消えると論じて、IT革命の予言者のようにもてはやされた。しかし、当時のIT革命がITバブルだったことが明らかになると、あっというまに、この経済学者の人気は下落してしまった。

 その後、着実にITそのものは改良されていったので、すべてが失われるというようなことはなかったが、IT革命という掛け声で実体がないままに膨張していたイメージはかなりの変更を余儀なくされたのである。したがって、この15年ほどのテレビ会議の普及は、技術的な進歩があったにせよ、むしろ驚くべきものがある。

 これは「グローバリズム」によって促された側面があるが、人間がその気になれば「顔を突き合わせ」なくとも、ある程度「本気になれ」ることを示している。にもかかわらず、今回の新型コロナウイルスの蔓延は、依然として人間はフェイス・トゥ・フェイスで会議したがるものであることを、あらためて証明したといえるだろう。

 おそらく、こうした人間の密着へのこだわりには、「社会的動物」として生まれ持った本能に近い生物上の特徴が反映しているのかもしれない。あるいは、それが教育の必要な文明的なものであったとしても、いかに人間の文明には集団で仕事をするという行為が、深く組み込まれていることを示している。

 おそらく、現在の新型コロナウイルス騒動は1年あるいは2年続くと考えたほうがいい。たとえば、医療体制を考えてみても、根本的な対策となるワクチンの完成までには少なくとも18カ月かかるといわれているし、また、対症療法もさまざま検討されているが、半年やそこらではケリがつきそうにない。ということは、1年から2年、さらに新型コロナの蔓延が周期的なものになったときには、もっと長い期間を想定する必要があるだろう。

 したがって、ポスト・コロナ社会を考えてみるときには、1年から3年後を想定しておく必要がある。これだけの長さになると、人間は長期にわたるテレワークや隔離的生活に慣れてしまい、生活やビジネスも根本的に変わってしまうと考えてしまいがちである。たしかに、大きく変わってしまうだろう。しかし、人間の生物的な側面に根差しているものは、極端な減少をすることはないし、また大きく変容することもなく、それは程度の問題と考えてよい。

 まず、テレワークだが、仕事というものが人間の生物的な性質に関わっている限り、根本的にフェイス・トゥ・フェイスの割合は簡単に減少することはなく、新型コロナが蔓延している間は割合が減少しても、終息後にはかなりの部分は復活するだろう。その振れ幅、つまりスイングの幅は、ざっといって1割にとどまるのではないかと私には思われる。つまり、トフラーが予言したときに比べれば、約2割のテレワークが行われることがあっても、鎮静後、しばらくすると1割半くらいまで後退するのではないか。

 いまのところ数理的に厳密な計算があるのではないが、これまでの人類史においての仕事のやり方およびアミューズメントのあり方を考えれば、そのほとんどは3密において行われてきたし、それがトフラー以降もそれほどの変化を遂げていないことからも分かる。それは、生物的な性格といってもよいし、人類文明の特色とみてもよいだろう。仕事や娯楽で全面的な「テレ」は中心たりえないのだ。

 さて、次に経済構造の変化に移るが、これは回を改めて述べることとしたい。ただ、簡単な見取り図だけ示しておくと、それはペストが流行して西欧中世が近代へと移行するきっかけとなったように、生物的基層あるいは文明的基層より上部になるものと考えれば、もっと大きな変化があっておかしくない。ミクロ的には消滅してしまうビジネスもあれば、生成する新ビジネスもあると考えたほうがよいだろう。

 

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