コロナ・パンデミックから、世界はゆっくりと復活に向かっている。もちろん、富裕国と非富裕国との大きな差や、コロナウイルスの変異株の発生など、問題はまだ多くある。しかし、昨年の同時期と比べれば、何種類ものワクチンの存在や、ある程度の国際協力体制など、コロナ禍前のいわゆる常態に向かっていることは間違いがない。
日本も富裕国のなかでは、ワクチン接種体制の遅れはあるものの、なんとかキャッチアップを続けている。現在(7月6日)、ワクチンの接種率は1回目終了が41万6832人、2回目が39万8805人ということで、約23%に達した。これもG7で見れば3分の1程度といってよいが、県によっては30%を超えるところもあり、悲惨な状況からは脱出しつつある。
そこで、ポスト・コロナあるいはコロナ以前への復活という話になるわけだが、いったい、そこで言われる復活というのは何だろうか。それをコロナ以前の生活ができることと定義しても、実は、不可能になっている。もはや人類は、コロナ・ウイルスと関わり合いながら生活するしかない。
また、コロナ以前の政治や経済の状態としたところで、多くの部分で不可逆なのである。おそらく、人間の性質に基礎をもつ生活以上に、政治と経済はコロナ禍をきっかけに大きく変化し、そしてコロナ禍が終わってもそのまま維持されることが考えられる。では、日本という国のコロナ後というのは、どのような生活、政治、経済が待っているのだろうか。
ここではまず、今どのように世界は「復活」しているのか、日本をそのなかで位置付けてみよう。さいわいに、その種のデータが次々と発表されている。それを視覚化してくれているものも多い。ここでは英経済誌ジ・エコノミスト7月3日号と同誌研究機関が発表したものを中心に見ていくことにする。同誌による数値の解釈も貴重だが、まずはデータを読み取ることで、自分の解釈をしてみるほうがいいだろう。
世界全体の構図は、最初に掲げた大きなグラフ(上)をみれば分かる。この世界は大きなうねりを描きながら復活しようとしている。世界はコロナ禍以前を100%としたとき、生活、交通、経済の観点から見て、平均して66%まで復活したというのが同誌研究機関の見立てである。中国は73% アメリカも73%、EUが71%、英国が62%、インドが47%といったところだ。日本はといえば65.4%というところで、まあ、平均値くらい。しかし、富裕国としてはかなり遅れている。
次に結論を示唆するグラフ(下)を見ることにしたいが、このなかの復活の度合いと最も強い相関性をもっているのは、やはり、ワクチン接種率である。日本はワクチン接種率が100人あたり30人(30%)に達していない(これは2回目も合算する延べ回数データで、しかも少し古い)のに、復活度は63%(やや少し古いデータである)にまで達している。これを「立派」と評価するか、「やっぱり」と失望するかは解釈が分かれるだろう。
ただし、この図は注意が必要である。接種率と復活率は強い相関性をもつとはいえ、国によっては最初から感染率が低いところもあるから、ウクライナのように10人に満たなくても復活度は88%という国もあれば、感染率が高かったチリのように、接種率が130人を超えているのに、復活度は54%弱である(ワクチンが中国製であるのが大きいという説がある)。
さて、こうした全体図のなかで、日本のそれぞれのデータを見てみよう。そのさい、富裕国のなかではワクチン接種が遅れたことを前提とする必要がある。まず、生活の復活具合だが、オレンジのラインが日本で、濃い灰色のラインが世界平均。
映画館への入場、スポーツ観戦、家庭にいない時間の3つから見ると、映画についてはかなり政策の影響が大きいように思われる。スポーツについては感染者数が少ないことを反映して、一時は50%の回復を見せたこともある。自宅にいない時間は世界平均とほぼ同じで、日本人がとくに外にでない国民だということではないことが分かる。
次に移動についてみると、航空による旅行は世界でみても、日本はかなり抑えていた。公共交通機関は世界平均並みだったが、いまはワクチン遅滞のせいか復活が遅れている。自動車での移動も世界並みだったが、ここにきて復活が鈍っている。
さて、ビジネスに関係したデータだが、オフィスの使用については、ほとんどの状況で世界平均を上回っており、ワクチン接種の遅れもあまり関係ないようである。このデータからすれば、日本人は会社で働くのが好きといっても、まあまあ正しいかもしれない。また、小売業の復活度だが、世界平均よりもたいがいの状況で高い復活度だったが、ここに来て勢いがないのは、やはりワクチンと見てよい。
興味深いのは、ビジネスに関連したオフィスの使用で、アメリカの場合がかなり特殊だという事実である。コロナ禍が始まってからオフィスの使用が低くなり、急激なテレワークの普及を示唆しているが、さらに、この傾向がワクチン接種が進んでからも継続している。しかも、オフィスを離れるという点でなく、ワクチン接種が進んでも戻らないという傾向が顕著なのである。
グラフを見直せば、小売業の場合にはワクチン接種が進んでから急速に上昇して100%になろうとしているわけで、オフィスの使用の復活の低さは変わっていない。ドイツではワクチン接種が進むにつれてオフィス復活が起こっており、英国ですらテレワークからの離脱の傾向がみられる。アメリカは、このブログの「テレワークからどう脱出するか;始めるより止めるほうが難しい」で紹介した、テレワーク脱却が難しい例といえるだろう。これは、新しいワークスタイルの急激な定着の可能性もあるが、アメリカの産業構造によるものと考えておくべきかもしれない。
あまり単純に推論すべきではないが、日本の場合にはワクチン接種の遅れが復活の遅れに強く反映していると考えてよいだろう。問題は、他の国がいまの傾向を延長する先に1年後くらいは見えるのに、日本の場合はここに五輪という要素がはさまる。五輪のさいのコロナ抑制しだいでは、復活度がなかなか高まらないという事態があるだろう。
ここまでは、データで比較的すっきりと推測できる分野の復活について述べてきたが、政治や経済については、もっと他の要素が加わる。つまり、コロナ禍によって生まれた経済の巨大化、具体的には財政と政府の巨大化が、これからの世界にどのような影響を与えていくかという問題である。
しばしば論じられるのは財政の巨大化がこのままコロナ禍以後も継続され、「大きな政府」の時代に戻っていくのではないかという議論である。これはかなり大きな問題なので、稿を改めて述べたいと思うが、ひとつだけ触れておくと、財政支出だけ大きくしても、政治の性質は変わらないということはあり得ないということである。そしてまた、政治の変化の予感は、さらに奇妙な議論を生み出していくだろうと思われる。
最近、ある雑誌で読んだもののなかに、戦前の「大政翼賛会運動」を評価して、危機の時代を乗り切るには大政翼賛が必要だと論じているものがあって呆れた。しかもそれが自称保守派の論者だったので、ついつい笑ってしまった。
たとえ、いまのコロナ禍を抜け出しても、国内においてはあいかわらずの経済停滞が続き、対外的には中国の鬱陶しい存在が立ちはだかっていて、ここらで言葉だけでも凄んでみせたかったのかもしれない。しかし、大政翼賛運動には、きわめつきの右翼はいたし、きわめつきの左翼も参加していたが、ほんらいの保守などは影も形も見えなかったのである。歴史に学ぶという姿勢は分かるが、そこには細部にわたる考察が必要であり、なによりも真摯さと慎重さが不可欠である。
1994年ころも自民党が下野したこともあって、同党の中に「挙国一致内閣」をつくろうとか、「保保連合」だけが今の危機を乗り切れると唱える人たちが出てきた。政権を奪還していないのに、そんなことばかり論じていたのである。本人たちは真剣だったのだろうが、どこか痙攣的な感じがあって、まともに受け止めることはできなかった。
当時、わたしはこうした傾向は、単なる焦りの現れでしかないと思ったが、その粗雑さとご都合主義は、今回の大政翼賛への憧憬でも同じだと考えている。それは財政を単に巨大にすれば日本は復活すると嘯いている輩とも通底している。もし保守思想というものがあるとすれば、こうした焦り、粗雑さ、ご都合主義から吐き出される言葉からは、はるか遠くに位置するものだろう。
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