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東谷暁による「事件」に対する解釈論

イランの核武装は急速に進んでいく;スティーヴン・ウォルト教授が予測する近未来

イランのライシ大統領の事故死によって、同国をめぐる情勢は急速に緊張の度を増している。注目されるのは次の大統領が誰になるか、もうひとつが同国の核兵器開発はどうなるかである。前者はハメネイ師の次男が有力だといわれるが、後者のイランの核兵器については不明なことが多い。実はすでに核兵器は完成しているとの説まであるが、ではなぜ発表されないのだろうか。そして、それが本当なら中東および世界はどう変わっていくのか。


ハーバード大学のスティーヴン・ウォルト教授が米外交誌フォーリン・ポリシー電子版5月14日付に「イランが核兵器を手にした後の世界」を投稿している。「イランは核兵器を手にするのだろうか。そして、もしそうなったら何が起こるのか。第一の疑問への答えはイエスとなりつつある。ただし、第二の疑問への答えは、いまも不明瞭である」。というのが概要だが、それぞれについて微妙で複雑な問題が残っている。

イランの核武装については、アメリカを中心に、すでに多くの論争がなされてきた。その中心と目されていたのは、国際政治学者の故ケネス・ウォルツであり、彼は1981年に発表した論文「核兵器の拡散 多くなればなるほどよい」において、核兵器保有する国が多くなれば、かえって国際秩序は安定すると主張して論争を巻き起こした。その論理はイランにも適用され、イランが核兵器を持つことは地域の安定を促すと論じた。


「ケネス・ウォルツが最後に発表した論文によれば、中東地域を安定させるもっとも直截な方法は、イランが独自の核抑止力を持つことだといっていた。彼はイランが核兵器庫をもてば、他の国とのトラブルを起こす理由が少なくなるので、自国の安全保障上の恐怖を逓減し、また、地域のライバル国も意図せずにイランと核戦争につながるような武力の行使をしなくなると主張した」

そもそも、1981年に発表した論文が主張していたのは、核兵器が登場してきたことで世界は安定化するということだった。世界は様々な国際機関や条約があっても、基本的にはアナーキーな空間であるから、これまでの核兵器がなかった世界では、国家同士が相手に対して恐怖をいだき、そのため誤算や危険な行動が生まれてしまっていた。しかし、核兵器が発明されたことで、世界には「グレート・チェンジ」が生じて、秩序は生まれやすくなったというのである。


なぜなら、いかなる他国への攻撃も、核兵器による反撃に遭う危険性があれば、攻撃を控えるようになり、また、核兵器による攻撃も「耐えられない」核兵器による報復があると分かっていれば、そう簡単には核兵器を使う気にはなれないからである。もちろん、この議論の設定は多くの反論を生み出した。

ケネス・ウォルツが行った最も有名な論争は、スタンフォード大学のスコット・セーガンとのもので、ウォルツが核保有国は「多ければ多いほどよい」と論じたのに対して、セーガンは「少なければ少ないほどよい」と反論した。ウォルツは核兵器を持った国は合理的な判断を行うことができ、突発事故も管理できるとした。それに対してセーガンは、組織に生まれる錯誤について、ウォルツはまったく考慮しておらず、突発事故はそうした組織に生まれる欠落からいくらでも生じると批判した。


ティーヴン・ウォルトによれば「もちろん、アメリカはウォルツの立場を受け入れることは決してなかった」。ワシントンは常に新しく核をもとうとする国家に対しては厳しく臨んで、イランに対してもウランの濃縮プログラムを放棄させようとしてきた。その結果として2015年にオバマ政権のもとでヨーロッパ諸国を巻き込んで包括的共同計画(JCPOA)の合意にこぎつけたが、2018年にはトランプ政権が「これ以上ないようなばかばかしい判断によって」合意から離脱している。

ケネス・ウォルツが主張した「多ければ多いほどよい」という指摘は、合意の意味に大きく関わっており、ウォルツの理論を支持する専門家が意外に多いのは、核兵器がもっている戦略上の意味がやはり大きいからである。ただし、この理論については、おおむね同意する者の中にも、現実の信頼度においてはさまざまな違いが見られることも確かである。ここでスティーヴン・ウォルトの論文を離れて、少し背景を解説しておこう。


極端なウォルツ支持者のなかには、核兵器保有しただけで他国からの攻撃はなくなると考えている者もいるし、また、核兵器が「グレート・チェンジ」をもたらしたからには、もはや核兵器は現実に使用されることがないと論じる者すらいる。つまり、ウォルツの理論的な整合性を重視することから、保有自体が抑止になるなら、持つだけでよいわけであり、ひいては核兵器の不使用も保証されたと考えるわけである。

しかし、そのいっぽうでは、国際政治理論においてウォルツと同様に「リアリスト」と呼ばれていても、必ずしも理論通りにはいかないと見ている論者も少なくない。たとえば、ウォルツ理論の背景には経済学的あるいは数学的な均衡論があるとして、純理論的な議論を嫌う人たちがいる。シカゴ大学ミアシャイマー教授は主著の『大国の悲劇』のなかでこの問題をあつかっている。

そしてミアシャイマーはさらに、注記のなかで市場主義的な経済学者ミルトン・フリードマンの確率論的で市場論的な思考と並べて、ウォルツの純理的な思考法に、(おそらくは経済学で研究者のキャリアを開始したウォルツには市場均衡論のアナロジーがあると見なして)強い懐疑を表明しているのである。


また、比較的近年にはMITのヴィピン・ナラン教授のように、核保有自体と抑止が働くこととの間に、いくつかの段階をもうけている論者もいる。つまり、単なる保有に過ぎないケース、核兵器に対する報復の手段に限定するケース、いかなる場合においても核兵器を選択肢に入れるケースの3つを想定し、抑止力が生まれるのは最後の無条件な「エスカレーション・ポスチャー」だけだというわけである。

では、スティーヴン・ウォルトの場合は、どのように考えているのだろうか。そして、イランの核保有についてはどのように判断しているのだろうか。ウォルトはリアリストとしてウォルツを尊敬していて、国際政治を論じるさいには構造的な視点から見る点ではウォルツと同じだが、その構造を数学的あるいは市場論的な均衡としてとらえるかといえば、ミアシャイマーと同じく懐疑的であると思われる。


ここから再びウォルトの論文に沿ってみていくが、「アメリカ(およびイスラエル)はJCPOA以外にも、イラン政府が独自の核抑止力を放棄しないかぎり、自国の安全を確かなものにはできないことを分からせようと、あらゆることをしてきた」。アメリカ議会はイランの「民主主義化」のためと称して、イランの反体制派に資金を提供する法律を成立させたし、ワシントン政府はイランの関係改善の試みを拒絶し、そのいっぽうでイラン高官の暗殺や、イラン国内での諜報活動を続け、中東での反イラン勢力を支援してきた。

そこまでアメリカやイスラエルが、イランに対して警戒だけでなく実質的な敵対を行っているのに、なぜ、イランはもっと積極的に核武装の実現に向かわないのだろうか。「これは信用していないものの」とウォルツは断りつつ述べている説のひとつには、前出のように最高指導者ハメネイ核武装を教義上かつ道徳上好まないからというものもある。


さらには、アメリカやイスラエルの敵対行為が、自国をただちに崩壊させるようなものでないかぎり、急ぐ必要はないと判断しているのかもしれない。この点から見れば核武装を加速しない理由が見えてくる。イラン政府は核武装しようとする試みが探知され、アメリカやイスラエルによって、せっかくここまで築いた核インフラを破壊されたくないと思っているということもあり得る。この均衡は破られる可能性があるのではないか。ウォルトは次のように憂慮している。

「しかし、いまのような緊張が継続すると、イランが最終的には独自の核抑止力が必要だと決断することになってしまうだろう。そうなれば何が起こるのか、実は、誰にも分からないのだ。新たな中東戦争に発展してしまうかもしれないが、それは誰も望んではいない。また、イランが独自の(実戦的な)核保有に成功すれば、サウジアラビアやトルコもそれに見倣おうとするかもしれない」


「そうなったとき、『多ければ多いほどよい』というウォルツの説が正しいことが証明されることもないわけではない。いまの中東の勢力バランスが崩れてしまった結果、(逆説的に)それまで敵対してきた勢力同士が、これは危険だと察知して平和的共存を模索するようになるかもしれない」

そうなれば、まさに核による恐怖の均衡が生まれて、ウォルツの仮説が証明されたことになるわけである。しかし、そう考える根拠はどこにあるのだろうか。確かにリアリストが指摘してきたように、国際社会は構造的に把握したときに、将来を見通す可能性が生まれる。しかし、もし急速に恐怖が膨れ上がったとき、構造よりも感情が当面の事態を動かす危険性はないのだろうか。


急速な勢力構造の変化が危険であることはウォルツ自身が繰り返し指摘していた。だからこそ、「核拡散がゆっくりと進むならば」という条件を、かれの核均衡の理論に重要なファクターとして入れていたのである。しかし、この「ゆっくり」とはどれくらいの速度のことをいうのだろうか。あるいは、その適正な速度というのは、何らかの根拠をもって特定できるものなのだろうか。

経済学的な概念での「長期」とは「均衡が回復する時間」のことを意味する。しかし、もしこの概念が正しいとしても、それは単なるトートロジーではないのだろうか。ウォルトは今回の論文を、次のようなある意味ではありふれた、しかし、あまりにも正しいフレーズで締めくくっている。「この点についてまったく正直にいえば、この社会科学的な実験のひとつを、私ならあえてやってみようとは思わない」。