アシステッド・ダイイングについての世界的な議論が再び高まっている。聞きなれない言葉だと思う人もいるだろうが、日本でいう安楽死のことだ。しかし、安楽死という言葉は安楽という語感が誤解を生みやすいとの指摘は多い。このアシステッドという語の翻訳も幇助と訳されてきた経緯がありこれも誤解を招くが、ここでは現在の用法で「治癒が不可能な病気で苦しむ人に、命を絶つ手段を提供すること」を意味すると解していただきたい。
このアシステッド・ダイイングについての議論が再び盛んになったのは、コロナ禍のなかでトリアージ(医療選択)が注目されることになった事態とも関係あるだろう。トリアージとは、たとえば、人工呼吸が必要なコロナ患者が2人いるのに、人工呼吸器は1台しかなく、どちらに使用するかの選択をどのような基準で行うかの問題である。
もちろん、アシステッド・ダイイングは議論の核心部分で重なるが、もっと一般的で広範な議論であり、突き詰めていくと「人間には個人で自分の死を判断すべきなのか」という問題が横たわっている。この問題を特集しているのが英経済誌ジ・エコノミスト11月13日付で、社説の「アシステッド・ダイイングの好ましい広がり しかし多くの人がいまもこの基本的権利を否定している」と同日付のリポート「西ヨーロッパでは急速にアシステッド・ダイイングが法制化され受け入れられている」の2つである。
この問題について、いわゆる経済誌(正しくは新聞なのだが、形式が雑誌でありエコノミスト誌と呼ぶのが一般的)がこうしたテーマを追いかけていることを奇妙に思う人がいるかもしれない。実は、同誌は以前にも何回か特集したことがあり、今回の特集も1995年にオーストラリアの北部地区において、世界で最初のアシステッド・ダイイングを認める法律を成立させたときにさかのぼって論じている。
「この法律によれば、致死的な病気にかかっており、精神的に議論できる成人が医師に死ぬための助けを求めたときのみ、死をもたらす薬を用いることができる。当時、この法律を知って憤激する人は多かった。数カ月後には中央政府が差し戻しを命じたほどだった。しかしいまや、オーストラリアの5つの州がアシステッド・ダイイングの法制度をもっている」
同誌によれば、現時点でさまざまな違いがあるが、すでに12カ国でアシステッド・ダイイングの法律を成立させており、その流れはいまも続いているという。先週はニュージーランドが致死的疾病を対象にした安楽死法を、レファレンダムによって成立させており、同じ週にポルトガルが議会で同種の法律を成立させた。英国ではまだ違法にあたるが、上院がすでに討議を重ねている。
こうしたアシステッド・ダイイングでの死を選択した人は、まだ少ないが増加している。オランダの場合には2003年に1800人だったが、2020年には7000人近くに達しており、これは死亡者の4%に達する。もちろん、多くの反対者が存在しており、さまざまな理由によって反対している。
たとえば、そうした死に方は罪悪であるという人もおり、また、制度化してしまうと加速して、その傾向に歯止めがかからなくなるという憂慮もある。さらに、介護や看護に疲れた家族では、高齢者が生きていることにプレッシャーを感じてしまうと批判する評論家もいる。こうした安楽死を支持する人は、どちらかといえば教育程度が高い中間層に多いという分析もあって、認識に社会的偏りがあることも懸念のひとつである。
とくに、高齢者や病気で苦しむ人たちが自分たちが生き続けることを、あたかも罪であるかのように感じるのではないかという危惧に対しては、さまざまなアシステッド・ダイイングの適用条件を厳しくするという方法が考えられている。たとえば、致死的な病気で、6カ月以内に亡くなると医師が判断したときだけ、適用されるようにするなどの制限がいくつも考案されている。
しかし、こうしたさまざまな場合分けをすればするほど、適用される条件が厳しくなるわけで、たとえば、アシステッド・ダイイングを選択できるのは、もっと単純に「本人が痛みに耐えられない」という点に絞り、その病気が致死的であるかどうかは条件に入れないほうがいいという反論もある。
きわめて微妙なのは、以前に条件が整えばアシステッド・ダイイングを適用して欲しいと表明していた人が、適用の条件が整ったときに、自分で判断できないような精神状態にあるときにはどうするかという問題がある。いまの議論では、こうした場合には適用しないという説が主流となっているようだ。類似の問題に認知症の場合の対処で、この場合にも認知症の介護における「可能な限り本人の判断を重視する」という観点から、適用は控えるということになるわけである。
さらに問題は多く、たとえば新しい事実の発見や医学の進歩によって、いまの議論の基準や状況が変わってしまうこともある。分かりやすいのは医療技術の進歩であって、かつては致死的だった病気が、何らかの方法で死を回避できるようになったときどう考えるかという問題は、実はかなり大きな問題を含んでいる。「とはいえ、大枠の原則としては、自分の最期をいかにするかという判断を、個々人が保証されているということであり、それが健全なありかただとわれわれは信じている」というのが、ジ・エコノミストの暫定的結論である。
トリアージについては日本でも話題になったが「トリアージに追い込まれないようにするのが課題」という逃げのような認識にとどまった。日本よりコロナ禍の状況が厳しかった西ヨーロッパでは功利主義的な判断と、治療から除外される人(多くの場合は高齢者)が前もって書面で了承していることを条件とするか、あるいはスウェーデンのように、すでに医療制度に暗黙の了解として繰り込まれた医療従事者への判断依存を前提に議論するのが普通だった。
しかし日本の場合、どういうわけか「功利主義」と「前もっての了承」もなく、また、「制度的な暗黙の了解」を検討していないのに、危機的状態になったとき「医療機関および医療当局の法的責任を回避する」という、きわめてゆがんだ主張だけが先行した。主張者たちは「死生観を持っている」つもりだったようだが、実は、人間の死生について何ら真剣に考えていないことを暴露しただけだった。