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東谷暁による「事件」に対する解釈論

ネタニヤフ首相は戦争を指揮していない;強硬派に乗っ取られたイスラエルのガザ掃討作戦

イスラエルのネタニヤフ首相は、すでにガザ地区作戦の指揮から外され、戦争を遂行しているのは、戦時内閣に参加しているヨアフ・ガラントと軍部だという指摘は有力になりつつある。これが正しければ、そしてかなり正しいと思うが、たとえアメリカがイスラエルに停戦を強く要求しても、いまの一般市民を多く巻き込んだ掃討戦をやめることはないだろう。いまイスラエル内部で何が起こっているのかを知らずに、ガザ地区の悲惨な状況を真に知ることはできない。


経済誌ジ・エコノミスト電子版12月9日号は速報の「ネタニヤフの脆弱な権力把握」を掲載した。「いったい誰がハマス戦を指揮しているのか。ベンヤミン・ネタニヤフは、戦時連立内閣の中で孤立して、支配力を失っている」。12月6日にネタニヤフは戦時予算をかろうじて通過させたが、戦時内閣の主だったメンバーは予算案に賛成していなかった。

国家統一党の党首ベニー・ガンツは「ノー」を突き付け、ネタニヤフの与党リクード党の国防相ヨアフ・ガラントを含む2人は、敢えて欠席して同党の党首の席をうかがっている。いっぽう、極右党のメンバーたちは、もしネタニヤフが停戦などと言おうものなら、戦時内閣からすぐに離脱するだろう。すでにネタニヤフは政権のなかで孤立しており、世論調査で大きくネタニヤフを引き離したガラントが、ガンツとともに戦争を仕切っているという。


ジ・エコノミストはすでに12月7日号に「ネタニヤフは強硬派のなすがままになっている」との記事を掲載していた。「イスラエルの高官によれば、軍事的な決定は国防相のガラントが、司令官経験者のガンツとガディ・アイゼンコックとともに行っている。この2人は国家統一党に属し、ハマスの急襲があった10月7日にネタニヤフの戦時内閣に参加した」。

ガラントはリクードに属してはいるが、ネタニヤフが今年5月に彼を辞めさせようとしたこともあって、まったくネタニヤフを信頼していない。また、戦時内閣の3人の元司令官たちは、ネタニヤフよりもイスラエル軍に忠誠心をもっている。というわけで、ネタニヤフ首相がガザ地区をめぐる戦争について何かを決定しようとしても、ほとんど影響力を行使できない状態なのだという。


むしろ、ネタニヤフはいまの戦時内閣の強硬路線グループに拉致されたような状態だといったほうが適切かもしれない。周知のようにネタニヤフは汚職収賄の疑いで政権から転がり落ちたのち、無理やりに右派および極右とむすんで18カ月後に政権に返り咲いた。右派的強硬派の色彩の強い政権をつくった時点でハマスの急襲が起こったわけである。いまは戦争の遂行を口実にして裁判への出席を拒否しているが、イスラエル議会であるクネセトでの勢力は失われている。

では、イスラエルが新しい政権に転換する可能性はあるのかといえば、2つほど考えられると同記事は述べている。ひとつが、議会クネセトで再投票をして新しい首相を選ぶことだが、このときには反ネタニヤフで多数派が形成されるだろうが、いまは議会の中にこうした政権の更新に同意する雰囲気はない。もうひとつが、ガザ地区での戦争を縮小して議会をいそいで解散することだが、そんなことをしても中心的な論点がネタニヤフを首相にするか否かになってしまう。つまり、政治側からいまの軍事的行動を変えるのはむずかしいのだ。


同記事には細かく記載されていないが、では、国民の支持は誰に集まっているのかといえば、前述のようにガラントが48%と、ネタニヤフの28%を大きく引き離している。もし、この現実がそのまま議会に反映し、さらに新しい首相が選ばれたとすれば、いまと同じように一般市民をまきこんでの、ハマス掃討の継続となる可能性は高い。これはハマスの急襲による1200人の死者と、まだ100人余の人質が還ってきていないということへの嘆きと怒りが、イスラエルに横溢しているということだろう。

イスラエル軍での発表によれば、ガザ地区でのパレスチナ人死者は、ハマスと一般市民の比率が1対2であり、これまでの市民を巻き込んだ戦闘とくらべて、圧倒的に一般市民が少ないとの主張を行っている。しかし、この数値がはたして正しいのかという問題があり、たとえ正しいとしても、(そして、ハマスの急襲は非人道的ではあるが、)では、なぜイスラエルによる一般市民の大量の死者が正当化されるのかという問題は、依然として残る。


あるイスラエル寄りの論者によれば、『エルサレムアイヒマン』を書いたハンナ・アーレントが述べたように、残虐な行為を傍観しただけ、あるいは直接手を下さなくとも、それをやめさせなかった者には、残虐行為に責任が生まれるとの考え方を、いまのイスラエルガザ地区の一般市民に適応しているのだという。つまり、ハマスを支持したガザ区住人は、ハマスでなくとも死で贖う責任があるというわけだ。しかし、これはアーレントの考察を捻じ曲げた解釈といえるのではないだろうか。

たしかに、アーレントが言ったように「政治は子供の遊びではなく、真剣な行為」であって、そこに生命が関わっているときには、関与しているものには責任が生じる。しかし、たとえ命令に従っただけだとしても、ホロコーストを遂行したアイヒマンは処刑されて仕方がないとしても、傍観者であったドイツの一般市民は、たとえばドレスデン爆撃を自らの傍観への報復として、納得して死んでいくべきなのか。また、ソ連の占領下にあったドイツ人の悲惨な境遇は、当然の罪の償いなのだろうか。そんなことをアーレントが言ったとはとても思えないのだが。