厳しい状況のなかで建国して、地位を確立してきたイスラエルが、なぜ、いまになって戦略において驚くべき拙劣さを見せているのか。それがたとえ陰惨なハマスの急襲への報復だとしても、自国の信頼を損傷してしまっては、将来につなげることができない。ハーバード大学のスティーヴン・ウォルト教授が、歴史的に分析して警告を発している。
米外交誌フォーリン・ポリシー8月16日付にウォルトが寄稿した「イスラエルの戦略における危険な衰退」は、まさにいまの世界情勢を憂うる人が読んでおくべき論文だろう。アラブ諸国に包囲された地域に建国したイスラエルが、あらゆる戦略的思考を費やして、軍事的にも経済的に傑出した地位を築き上げたのは、「奇跡」と呼んでもよい達成だった。それがどうして今の隘路に迷い込むことになったのか。
もちろん、最初のころの栄光にもさまざまな裏取引があり、狡猾といってよい決断も含まれていたが、それを織り込んだうえでの戦略的思考が存在した。ところが、昨年のハマスによる急襲をきっかけに報復戦を開始し、当初はほとんどの先進国の支持を得ていたにもかかわらず、抑制の効かない陰惨な掃討戦に落ち込んでいった。それは何故なのか、そして、そこから脱出する手がかりはあるのか。
ウォルトが注意を喚起するのは、1948年の建国から約20年間に展開したイスラエルと、1967年以降の同国の戦略的思考の大きな違いである。1967年、エジプト、シリア、ヨルダンとの間に緊張が高まっていたが、同年6月、国防大臣に任命されたモシェ・ダヤン将軍は、イスラエル空軍による奇襲攻撃を断行して、敵対する三か国の空軍を壊滅させ、6日間で完全な勝利をものにした(この戦争は6日戦争ともいわれる)。
片目に黒い眼帯をしたダヤン将軍は不世出の英雄と讃えられ、世界中の軍事関係者からも称賛され、この戦いは「奇跡の勝利」と呼ばれた。ウォルトによれば、実は、イスラエルは圧倒的な空軍をもっており、アメリカの情報機関はイスラエルの勝利を予測していたというが、イスラエルの国民にとってはきわめて誇らしい出来事だった。「しかし、この勝利のスピードと洞察力が多くの人によって称賛させることによって、傲慢(ヒュブリス)な感情が生まれるのを助長し、以降、イスラエルの戦略的判断を損なわせることになる」。
このヒュブリスがもたらした最大の悲劇は、ヨルダン川西岸地区とガザ地区に入って占領し、この地域をしだいに植民地化することによって、長期的には「大イスラエル」の建設を実現するという、野望を生み出したことだったとウォルトはいう。そして、そうした傲慢は、1967年にエジプトのサダト大統領が示した、イスラエルが占領していたシナイ半島の返還と引換えに和平を結ぶ用意があるというサインを見逃させてしまう。
このときイスラエルの情報機関は、エジプトの軍隊はイスラエルに対抗するには弱すぎるので、なんとか戦争は回避しておこうとの意図だと解釈してしまう。そこで起こったのが1973年の第四次中東戦争(十月戦争)だった。この戦争では緒戦でアラブ側に敗北してしまい、なんとか戦場では巻き返しをはかるが、停戦交渉ではアメリカなどの圧力でシナイ半島は放棄せざるをえなくなる。
そこでイスラエルに自国の拡大主義についての再検討が生まれたかといえば、それはなかった。1982年にレバノン侵攻を断行しているが、このときの国防相アリエル・シャノンは「大イスラエル主義」の信奉者だった。彼は当時のベギン首相に、この攻撃によってベイルートのパレスチナ解放機構(PLO)を壊滅させ、ベイルートに親イスラエル政権がつくれると説得したという。しかし、PLOを排除したものの抵抗運動はやまず、後にはヒズボラが強くなって、イスラエルは2000年にレバノン撤退に追い込まれた。
1993年、アメリカのクリントン大統領が仲介して、イスラエルとPLOの間にオスロ合意が調印される。「しかし、PLOはこのときオスロ合意に調印してイスラエルの存続を認めたにもかかわらず、以降のイスラエルのリーダーたちは誰一人としてパレスチナ人による彼らの国家を認めようとはしなかった」。
2000年のキャンプ・デービッド・サミットではイスラエルは「ヨルダン川西岸に2つか3つの非武装の県を設置し、イスラエルが国境、空域、水資源を管理する」という案を提示した。以前より前進したとも言われたが、「後にイスラエル元外相のシュロモ・ベンアミは『わたしがパレスチナ人だったら、キャンプ・デービッドでイスラエルから出された案は、拒否していただろう』と言ったものにすぎなかった」。
そして、現在である。「パレスチナ人と和平を実現するには、イスラエルが占領地での入植拡大をやめて、パレスチナ人と協力しながら、能力のある効果的で合法的な政府を樹立する必要があるだろう。しかし、イスラエルの指導者たち、とくにシャロンとネタニヤフが率いる現在のイスラエル政府は、まったくその逆のことをしている」。ネタニヤフ政権は、入植拡大停止を拒否し、それが回りまわってハマスを支援することになっても、「二国間解決」を推進するアメリカの試みを妨害すらしてきた。
興味深い「イスラエルの戦略的思考の衰退を示す事例」として、ウォルトはイランの核開発の制限を交渉する「包括的共同行動計画」への対応をあげている。2015年に署名されたこの計画は、中東で核兵器をもつ唯一の国であり続け、イランには絶対に核を持たせたくないと思っているイスラエルからすれば、かなり好都合なものだった。ところが、イスラエルの安全保障担当の高官たちが賛成しているのに、ネタニヤフ首相と周囲の強硬派、AIPACを中心とするアメリカのイスラエル・ロビーは断固反対し、トランプ前米大統領が離脱するのに重要な役割を果たした。「そして現在、イランはかつてないほど核兵器製造に近づいている。イスラエルの政策はここまで近視眼的になってしまったのだ」。
「では、なぜイスラエルの戦略的思考が衰弱したのか。最も大きな理由は、アメリカの保護と尊重がもたらしたイスラエルの傲慢と免責の意識だと思われる。何をしても世界最強の国が支持してくれるなら、自分の行動について慎重になる必要は薄れるだろう。そして、イスラエルが自国を被害者とみなして、自国への批判をすべて反ユダヤ主義だとすれば、指導者も国民も、自分たちの行動が引き起こしている敵意について、理解することは難しくなるだろう」
いまウォルトは、イスラエル政府のなかで宗教的右派の勢力が強まっているのを憂慮している。それは2001年に9・11に直面し復讐心に駆られたアメリカ政府がアフガン戦争やイラク戦争に踏み出したように、イスラエルが自国だけでなく世界中に巨大な損害を与える可能性があるからだという。「今のイスラエルの行動は同国の長期的な見通しを脅かすものであり、その戦略的判断力の低下にとくに懸念をもつべきである」。
いまアメリカにおけるイスラエル支持者たちができる最善のことは、民主党と共和党の双方に圧力をかけて、イスラエルに対して厳しい姿勢をもとめ、現在の軌道を修正させることだろう。そのためにはAIPACなどのロビー団体が、イスラエルを窮地に追い込んだ自らの役割を反省すべきなのだという。「しかし、残念ながら、そうなる兆しは今のところ見られない。それどころか、イスラエルとアメリカはさらに攻撃的になっている。この論文は大惨事といわないまでも、終わりのないトラブルを避けるための処方箋である」