HatsugenToday

東谷暁による「事件」に対する解釈論

インフレでなくともバブルは起こる;もう十分に危険水域です

世界の企業の負債が急増して、アメリカ株式が最高値をつけている状況からして、もうこれは「バブル」と呼ぶことができる。もちろん、あらゆる経済学者が一致したバブルの定義などはないのだが、いくつかのファンダメンタルズと株価あるいは負債率を比較して、それがこれまでの平均から著しく逸脱していれば、「バブル」と呼んでよいはずである。

 

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多くの人が勘違いしてしまうのは、バブルの時期にはインフレになっているはずだと思い込んでいるからである。それは権威ある経済学者の本でも、いくつかの歴史的事実だけをみて「バブルになり、当然、インフレも昂進した」などと書いていることからしても、根強い「偏見」であることがわかる。

 しかし、いまのバブルは必ずしも全体的なインフレをともなうとは限らない。そして、そうであるのにバブルが崩壊すると、マイナスの影響だけは全体的に及ぶのだ。たとえば、日本の1980年代のバブルは、インフレを伴わなかった。それはバブルが不動産に集中していたからである。しかし、そのバブルの巨大さからして、破裂したときの影響はすさまじかった。

いまのバブルをインフレがないという一事をもって否定するべきではない。最近のバブルとインフレの議論をみていると、まさにこの種の危うさがあらわれている。すでにバブルだから財政支出を加速するのは危険ではないのかという議論に対して、「いや、世界は低インフレ時代なのだから、財政出動はもっともっと可能だ」などという、単純で能天気な議論が勢いを持ち始めている。

まずは、債務の量からみておく必要がある。ブルームバーグ電子版(12月2日付)によれば、すでに世界中の政府、企業、家計の財務残高は250兆ドルにのぼっている(下図)。これは世界全体の国内総生産の約3倍に相当するという。こうしたなかでの議論の構図というのが、「バブルだから財政支出は危険だ」対「インフレじゃないからいくらでも可能だ」なのである。

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 Bloomberg電子版より


 「グリーン・ニューディールや『現代貨幣理論(MMT)など赤字財政支出の提唱者は、中央銀行が景気下支えで実質的に手を尽くした現状にあって、企業や家計の活気を取り戻すには多額の財政支出が必要だと主張する。

財政規律を重んじるタカ派はこの種の提案について、さらなる問題の種をまくだけだと指摘する。しかし、経済的な問題を引き起こすことなく債務残高をどこまで積み上げることが可能かという方向に議論は向かっていると見受けられる」(Bloomberg 電子版)

構図としてはそのとおりだが、ここには気になる書き方がいくつかあって、まず、グリーン・ニューディールとMMTを別物であるかのように列挙しているが、前者を主張するオカシオコルテス下院議員の経済顧問はMMTのケルトンで、列挙するならMMTとニューケインジアンの一部(ブランシャールやクルーグマン)をあげるべきだろう。

 さらに、このブルームバーグの記事では、政府の債務も民間企業の債務も同じく「債務」として、同じものとして論じているのだが、やはり注意が必要だろう。政府の債務は国債の発行によって生じるが、民間の債務は銀行、債券市場、その他の金融取引によって生じるから、本来、性質の違うものであるのだが、いっしょくたにしている。

 こうした分類の不適切はともかく、最近の議論でやはり奇妙なのは、財政支出が民間企業の債務に与える影響について考慮していないことだ。いまの民間企業の債務の急増は高リスク投資によって生じているわけだが、このような状態のときに、財政支出がこれからも拡大するというメッセージが、民間企業の投資意欲をどう動かしていくかということについて、この記事は残念ながらほとんど何も述べていない。

 たとえば、1980年代の日本の不動産バブルは、前述のように経済全体のインフレを加速しないままに進行していった。そのせいもあったと思われるが、85年のプラザ合意によって為替レートが2倍にもなる円高を要求されたとき、日本銀行円高による輸出企業への打撃を緩和するため金利を下げていった。結果として、民間企業の投資意欲が刺激されて、さらにバブルを助長したわけである。

 こうした非インフレで投資加熱の経済では、民間銀行からの現金に対する需要が上昇していくが、80年代はデーターからみて、日銀は日銀券の供給もかなりのペースで行っていた。まさに自生的貨幣供給が「順調」に行なわれたわけで、このときの日銀の対応についてはインフレターゲット論者たちが、日銀の無為無策として批判してきた。それに対して日銀派は、日銀は貨幣需要に対して応じただけとの議論を展開して、まるで話がかみ合わなかった。

 微妙なのは1990年3月に大蔵省が「総量規制」を行って貨幣の供給に介入してからの現象である。前年から続いていた日米構造協議において日本は10年で430兆円の財政出動を約束させられていたが、これは、日本国内で公共事業を派手にやればアメリカからの輸入が増えてアメリカの貿易赤字が減るという、あやまった論理によるものだった。同年1月にすでに東証は暴落してバブルは終焉を迎えていたのに、日本国内の投資意欲は一時的にせよますます高まってしまう効果を生みだした。

大蔵省の総量規制には「穴」があって、住宅金融専門会社住専)には規制がかからなかったので、他の金融機関に流そうと思っていた資金は、住専にすごい勢いで流れ込んだ。すでにリスクが高くなっていた不動産投資に投入されたので、当然のことながら、かなりの部分がこげついた。つまり、巨大な不良債権に化けたのである。

 このとき住専に多額の資金を回したのが農協系金融機関だったので、問題はさらに複雑になった。同系金融機関は協同組合であり、損害は本来的には組合員が負担することになるので、すぐに政治問題化した。

このように、インフレが生じていない状態にある経済においても、バブルが生じている場合には、将来に対する異常な期待(ユーフォリア)が生まれやすい。それが自生的貨幣供給メカニズムを刺激するだけでなく、さらに積極的な金融政策や財政政策に走ってしまうと、ユーフォリアがさらに昂進する危険がある。こうしたことも、もう考えておかなければならない。

 やや荒っぽい原稿になったが、いま、サイト「今のバブルはいつ崩壊するか」を連載しているので、興味のあるかたはそちらもご覧いただきたい。