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東谷暁による「事件」に対する解釈論

ウクライナ社会の裏を読む(1)ゼレンスキーは何故オリガルヒと結んだのか

バイデン米大統領は、6月10日、侵攻前にゼレンスキー大統領にロシア侵攻を警告したが、彼は「聞く耳を持たなかった」と非難した。さんざん武器を供与して戦わせておきながら、いまさら梯子を外す気かと思ったが、それはさすがになかった。しかし、ウクライナ戦争については、情報に矛盾する部分が多いことが、指摘されるようになってきた。


そもそも日本人にとっては、ウクライナという国についての情報が限られていた。しかも、ロシアとウクライナの対立について予備知識がないまま、侵攻後のウクライナアメリカの情報だけでイメージしようとすると、この戦争は不自然なことが多すぎるのである。このブログでは、なるだけ日本で報じられない情報を提供しているが、少し前に紹介したセント・アンドリュース大学の社会人類学者タラス・フェディルコのインタビューから、彼のウクライナ社会メディア論を見てみたい。

ウクライナの戦争――タラス・フェディルコ博士へのインタビュー」はネット上のメディアに掲載されたもので、戦争の政治経済的側面、メディア、そしてウクライナのオリガルヒ(新興財閥たち)についてかなり詳細に語っている。今回はウクライナのメディアについて述べた部分を紹介し、次回は戦争のきっかけといわれる、ウクライナ東部での右翼武装派(ウクライナの)と親ロシア派勢力について政治経済学的に語った部分に目を向けよう。


フェディルコは2013年、英国のダラム大学社会人類学の博士号をとるためウクライナでフィールドワークを計画するが、直後、ロシアのクリミア併合があったため延期され、2017年からキーウを拠点に18カ月の間、2つの調査を続けた。ひとつが2013年から翌年にかけての「マイダン革命」以降に生まれた、ウクライナ内の自由なメディアの試み。もうひとつが、ウクライナの軍事主義と新しいエリートたちの誕生である。

マイダン革命というのは、2013年に親ロシア派だった当時のヤヌコヴィッチ大統領がEUとの政治・貿易協定を見送ったことから、激しい抗議活動が広がり、ついにはヤヌコヴィッチが失踪するにいたった騒乱のことだ。「ウクライナ騒乱」とよぶ人もいるが、ウクライナの親欧米派はこれを「マイダン(誇り)」とした。このとき、アメリカが背後でかかわっていたことは、ほぼ間違いないことで、ソ連崩壊後のウクライナ情勢は、つねにロシアとアメリカとの綱引きによって推移してきたといっても過言ではない。

ウィキより:大統領選でゼレンスキーへの支持は東部と南部に集中していた


この「革命」の後にポロシェンコ政権が生まれるが、政治的な分裂は続き、あいかわらずロシアと欧米との間にあって不安定だった。この時期に顕著になったウクライナ社会の分裂については、フェディルコがウォールストリート紙に発表した論文に従うと次のようになる。「ウクライナ西部と都市部の中間層に支持を受けているナショナリスト的で欧米寄りの新自由主義的な陣営と、産業化されている南部と東部の有権者に支持される比較的親ロシア的な勢力によって、2つの極に分かれてしまった」。

この2極化が、マイダン革命後に急速に台頭する「自由なメディアを作ろう」とする運動にも大きな影をおとすことになる。もともと、ウクライナソ連内にあった時代には西側的なマスメディアが発達するわけもなかった。1991年に独立を果たしてからも、自由で民主的な社会を前提としたメディアは発達しなかった。何が発達したのかというと、ロシア同様に、社会主義崩壊の後に台頭したオリガルヒ(新興財閥たち)が丸抱えしているメディアだった。

「マイダン革命の後に、リベラルなメディアを目指した人たちは、オリガルヒが報道内容まで支配しているメディアと、ジンサ(Dzhynsa)と呼ばれる契約情報誌やニュース紙を装った刊行物からなる、腐敗した新興ジャーナリズムの暗黒状態に対して、公に反旗を翻し、改革を主張することを自らの任務としていた人たちだった。ウクライナのおよそ4分の3の放送メディアは、4つの金融・産業の(オリガルヒ的な)グループに所有されていた。そしてオリガルヒたちは報道メディアを、エネルギー産業や冶金工業などのビジネスの既得権を維持するため、政治的道具として使っていたのである」

2017年時点でのウクライナのメディア


2013年以降、西側諸国の基金が急激に多くなり、リベラルなメディアを目指す改革者たちは、それまでのオリガルヒおよび腐敗のメディアとは縁を切ろうとして、そうした基金を利用しながら、さまざまな試みを続けていた。そのなかには先進国のメディア経験者が直接援助するような試みもあった。日本でもJAICAがNHKインターナショナルに委託して、試みられた「公共放送」の体制づくりに協力している。JAICAのホームページによると「今まで政府から言われたことだけを放送するのが当たり前の環境だったため、公共放送としてのあり方を一から伝える必要がありました」とのことである。

しかし、さまざまな自由への試みは、必ずしも同じ思想や利害によって統一されていたわけではない。フェディルコによれば、自由なメディアの従事者の中には単に「本当のメディアか」「支配されているメディアか」といった違いだけでなく、「親ウクライナ派」「親ロシア派」の分裂も見られるようになっていった。この分裂は、たとえば人権についての捉え方だけでなく、事実上、2014年から続いているウクライナ東部での戦争においても、自由で批判的な報道を制限していくことになる。


「ゼレンスキー大統領は2019年の選挙で、ウクライナとロシアとの対立を回避していく平和プラットフォームを提示して、73%もの支持を得て当選する。しかし、このプラットフォームの提示に対して、改革派のメディア従事者たちや市民運動組織は批判的だった。このことが、唯一ではないにしても(また、ある程度の単純化をしてだが)、ゼレンスキーにこのプラットフォームを放棄させて、ナショナリスティックで市場主義的な(ウクライナ西部と都市部)と連携する方向に向かわせたと思われる」

先ほどの「ウクライナ西部と都市部の中間層に支持を受けているナショナリスト的で欧米寄りの新自由主義的な陣営と、産業化されている南部と東部の有権者に支持される比較的親ロシア的な勢力」という構図のなかで、ゼレンスキーは前者の陣営と強い結びつきを持つようになっていった。これはフェディルコが前出の論文でも述べていることだが、大統領選挙において、南部と東部の圧倒的な支持を得て勝利したゼレンスキーとしては、「変節」と言われても仕方がない大きな路線変更だった。そしてまた、西部と都市部へと接近することで、自由なメディアが批判していたはずのオリガルヒたちとも結びついていくことになる。

この平和から対立への突然の路線変更は、ウクライナに詳しい人たちによって指摘され、また、ロシアとの間で結んだ停戦協定である「ミンスク合意」に対する「違反」にもつながっていくことになるのだが、これは稿を改めてフェディルコの考察を紹介することにしたい。そこでは、ゼレンスキーがウクライナ社会の最大の組織である軍事勢力と接近することになった理由も明らかになるだろう。ともかく、こうしたゼレンスキーの軽々しく見える行動の甚だしいブレにも、ウクライナ社会の分裂とその顕在化が、大きく関係していたということである。


今回のウクライナ戦争を、まるで2月下旬のロシアによるウクライナ侵攻によって始まった、突発的な戦争であるかのように思っている人がいるが、それはまったくの錯誤であり、1991年のソ連からの独立にまでさかのぼることのできるものだ。そこまでさかのぼらしてないにしても、2008年のブカレスト会議における、ブッシュ息子大統領の不用意なNATO拡大宣言くらいは押さえておかないと理解できない。

そしてまた、国際政治のリアリストたち、とくにジョン・ミアシャイマーの考察が解明してくれるような、アメリカとロシアから見る「大国の悲劇」の分析は、もちろん不可欠なものだ。しかし、では、なぜゼレンスキーは平和的プラットフォームを放棄して、NATOという軍事同盟に参加するという、かなり困難が予想される路線を選択するにいたったのか。この問題に納得のゆく答えを得るには、ウクライナの長い歴史において、常に独立を阻まれてきた「大国隣接国の悲劇」も、詳細に見ておく必要があると思われるのである。

 

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