高市首相が台湾有事をめぐって、それが「存立危機事態」の要件となると発言した余波はいまも広がっている。11月7日に岡田克也議員の質問に答えるかたちで述べた「わが国と密接な関係にある他国」について、12月16日の参院予算委員会で「米国以外が該当する可能性は相当限定される」と述べているが、これで中国の激しい容喙が止むわけではない。しかし、こうした「存立危機事態」や「わが国と密接な他国」についても、国連の集団安全保障そのものが揺らいでいる現在においては、その意味が不明瞭かつ不安定になるのは当然だろう。

ハーバード大学教授のスティーヴン・ウォルトは米外交誌フォーリン・ポリシー12月16日号に「『集団安全保障』はいま生命維持装置に繋がれている」を寄稿して、世界の平和を「集団安全保障」で実現しようとする試みは、まちがいなく挫折するだろうと警告している。いうまでもなく集団安全保障という言葉は、国際連盟や国際連合によって世界平和の枠組みとして論じられ定義されてきた。ウォルトが論じているのはもっと広い、複数の国家が何らかの枠組みで平和を目指す試みをも含めている。そしてそれは彼が論じてきたリアリストの目から見た国際政治では、ますます成立が困難になっているというのである。
まず、ウォルトが述べている集団安全保障の種類について見てみよう。ウォルトが提示しているのは3つあり、それらは過去に存在した比較的現実的な集団安全保障協定に限定している。第一が、「競合国家同士が、範囲が狭く具体的な方法で摩擦を制限することに合意するもの」であり、SALT条約やSTART条約といった、米ソによって行われた軍備管理協定がそれにあたるという。「しかし、これらの協定は超大国が数千もの核兵器を製造したり、その威力を高めるために数千億ドルもの資金を費やすことを阻止できなかったし、また、ソ連と西側諸国との対立を終わらせることは、もちろんできなかった」。

第二は、「平和維持活動」であり、「2つ以上の交戦国が和平を締結した場合に、中立の平和維持部隊が派遣され、合意内容を監視し、双方の安心を維持する」。しかし、この仕組みはそれまで交戦していた集団が本当に戦闘を停止し、その決定を順守する意思がある場合にのみ有効だろう。というのは、平和維持軍はふつう再び武装蜂起する国家や軍隊の試みを阻止するには弱すぎるからだとウォルトはいう。「平和維持活動は有効な手段だが、それだけで戦争を防ぐことはとうていできない」。
第三が「軍事同盟」であり「これは集団安全保障の最終形態であり、正確には集団防衛と呼ばれる」。共通の脅威に直面している国ぐには、集団防衛に協力し、脅威となる国家による攻撃を抑止し、あるいは攻撃された場合は撃退するために、軍事的準備を行うことで、その目的をはたそうとする。軍事同盟はしばしば、強力で武装の整った国家が近くに位置し、現状変更のために武力行使に踏み切る意思があるように見える場合に、もっとも形成されやすい集団安全保障である。例としては1949年に結成されたNATOで、さらに日米安保条約のように冷戦期に米国が日本、韓国、その他のアジア諸国を結んだ軍事同盟が分かりやすいものとして挙げられる。

こうした軍事同盟に代表される「集団防衛協定」は、冷戦期には非常にうまく機能したように見えるが、しかし、現在の世界においては機能しにくくなっている。冷戦期の場合、たとえばNATOについて考えれば、ヨーロッパにおける武力行使が二つの強大な軍事同盟の破壊的戦争につながることが双方にとって明らかだった。ところが、現在、どの国が最大の脅威なのか、また、それらにどう対処するのが有効なのか、コンセンサスがきわめて成立しにくい状況となり、冷戦期のような予測可能性と安定性を得ることができなくなっている。
こうした現在の予測不可能性と不安定性のために、たとえばロシアをかつての帝国を再建しつつある容赦のないヨーロッパの侵略者と見なす国ぐにが存在するいっぽうで、グローバルサウスの国ぐにはロシアを恐れてはおらず、ロシアとの商取引を続けている。それは「アメリカにおいても、トランプ政権のロシアに対する立場は毎週のように変化しているために、ウクライナ戦争を終わらせるための方針がきわめて不安定なものになっている」。また、ヨーロッパについても、アメリカとの関係が不安定になって、おそらくNATOはこれからますます弱体化するのではないかとウォルトは述べている。

では、いま、われわれは世界の安全保障をどのように見ればいいのだろうか。ウォルトはこれも3つあげている。第一が、「集団安全保障に将来への期待を託すべきではない。ましてやその大胆で野心的な試みなどは信用できない」ということである。それは過去に一度も機能したことはないし、将来も機能しないからである。第二に、「われわれはいまも、それぞれの国家が自国の持ちうる政治的資源に、生き残りの希望を託すしかない」ということだ。第三に、「自国の能力を強化し強力な同盟を形成することは、全面的に否定するべきではないが、それらの試みは密室の取引ではなく透明性のある方法で試みねばならない」。
例によってかなり暗い提言だが、それは集団保障の現実が明るい話題を提供してくれるようなものではないからだ。国際政治というもっともおぞましい現実があらわになりやすい営みの結果だからである。最後にウォルトは、集団安全保障のより現実的なアプローチですら、戦争のリスクや各国がそれに備える必要性をなくすることはできないと指摘している。「集団安全保障は死んではいないかもしれないが、けっして健康な状態ではない」。

以上がウォルトの論文の概要だが、すこしだけ付け加えておこう。集団安全保障を論じるさいには、特に日本の国際政治学者たちは、何が何でも国際連合のすばらしさを宣伝しないと気がすまない。それまでの人間のおぞましい歴史に、明かりを灯したのが国際連盟であり、その大きな進歩が国際連合なのだというのが前提だからである。しかし、国際社会において確かなのは、それぞれの国が存続するために、他国から自国を守るのに必死になっているという事実だけである。それを法律用語でいうと「個別的自衛権」の行使ということになる。
世界の国ぐにがそれぞれの国が存続する権利を認め合うことは、個別的自衛権を認めることに他ならない。個別的自衛権を突き詰めていくと、自国が危うくなる高い確率が認められたときは自国が攻められていなくとも他国への援護することもできることになり、さらには他国の援護を頼むことも権利としてあることになる。それがいわゆる集団的自衛権ということになる。つまりは個別的自衛権の延長線上にあるものなのである。

ところが、現在の国際連合はこれを否定して、戦争の正当性は国連の安保理だけが判断できるとする地点から始めている。そして、安保理の決定が下されるまでの間、例外的に集団自衛権を認めるというロジックを作り上げた。しかし、これは実は現実的ではない。そもそも、1990年代にアメリカが一極支配を試みた時期を除けば、安保理は機能したためしがない。この世界の歴史はこうした例外だらけだからである。日本の国際政治学や国際法学ではしばしば、集団的自衛権と集団的安全保障とは異なる概念だから、いっしょにしないようになどと仰々しく論じている。
そのこと自体は形式的には間違っていないが、この2つの概念は実は現実のなかでは深く結びついている。にもかかわらず、集団安全保障を先に説明して、例外として集団的自衛権の行使を付け加えるので、現実からすればまったくさかさまな議論になってしまうのである。冒頭にあげた高市首相の発言についての論評にも、まったく倒錯したものが少なくない。まずは現実が重要であり、これまでの歴史こそが、われわれの判断の基準となるべきだろう。いかに美しくとも形式的な推論だけでつくられた議論は信じるべきではない。ましてや、その推論を根拠に試みられてきた集団安全保障は、ウォルトによれば現実を踏まえていない単なる幻想だったということなのである。